9月も終わり。

一ヶ月が経つのは早いですね。

今月は大阪市美術館にデトロイト美術館展を観に行きました。
人が多いのが少し辛かったものの、総じて分かりやすいラインナップで良かったと思います。
詳しくない人には「この画家はこんな風な作品を描くんだ」と理解してもらいやすく、詳しい人にはいくつか並べられた諸作品の相違点から新たな気付きを得られやすい展示だったのではないかなと。
日によっては館内が撮影可能になっていた辺り、時代の変化を感じました。

家でPCに向かって長文を書くのが面倒な今日この頃なので今月もこんな手抜き記事ですが、先月の記事に拍手をもらった事を言い訳に、開き直って書いております。
こんな風に気軽なことを書くのも、たまには良いものですね。

ではまた来月。

暑いですね。

日本の夏がクーラーが無いとどうにもならない状態に至ったのは、振り返るといつ頃からだったんでしょうね。
今や夜の室温が30度を超えていても全く驚かなくなりました。
そんなわけで今月は可能な限りリビングで過ごしていたのでサボりです。
ではまた来月。

都知事選と参院選。

今月は都知事選と参院選がありましたが、年々書く気がなくなって行く悪い流れが何とかならないかと思いつつ、今後は更に酷くなりそうで困ったものです。政界だけでなく、色んな分野で人材不足&それにもかかわらず求められる能力は上がり続け見返りは少なくなり続けるという、当分続きそうな傾向が早く終わって欲しいものですね。。という事で、以下雑感。


■都知事選

勝負に出た小池さんが見事な勝利を得たと言うべきなのか、対抗馬となるはずだった有力候補二人がどんどん自滅して行ったというべきか、難しいところですね。とりあえず対外的には、初の女性都知事でカイロ大学卒という経歴やアラビア語にも堪能という個人の資質は受けそうですが。国内的には「女性のくせに俺より優秀なんて認めん」的な女性蔑視の発想から来る感情的な反発に苦労しそうです。

増田さんは自民・公明から公認を得たのに身内からの支持が広がらず、岩手県知事時代の手腕が問題になっても日本創成会議での提言内容に疑問の声が上がっても納得のいく反論がなく、個人的にも中公新書の「地方消滅」は問題提起の部分はそれなりでしたが対策の話になるとイマイチという印象でしたので、色々と足りない部分があったという結論になりそうです。尤も、個人で劣っても組織で巻き返す可能性はあったはずですが、自民党支持層ですら小池さんに投票した人の方が多かったという現実がなかなか切ないですね。

鳥越さんは野党統一候補という時点で個人的には意味不明でしたが、直前の参院選で与党が信任を得た状況でなお国会の与野党対立の構図を都に持ち込む意図といい、東京都よりも国の管轄であるはずの憲法などの話を持ち出す事といい、関係者全員が冷戦終結前の世界に生き続けているような印象でした。選挙期間中に女性問題の報道が出たのはお気の毒でしたが、それへの対処は率直に言って酷いもので、他人に厳しく自分に甘くという見苦しい姿に終始していたのが残念でした。この世代の女性観って悪い意味で本当に変わらないですね。


結局の所、色々と問題はあっても舛添さんが続けていた方が、総合的には良い事の方が多かったのではないかと思える辺りが哀しいですね。舛添さんが人格的に問題を抱えていたのは都知事選に出馬した時点で多くの人が知っていた事で、だから自民党も公認に躊躇したわけですが、多くの瑕疵があっても有能な人材を使い捨てる結果になったのは残念でした。

舛添さんで印象に残っているのは厚生労働大臣の頃ですが、その辺りが彼の器の限界だったのかもしれません。それよりも権限の強い大臣に任じてしまうと都知事時代と同様の暴走(スタンドプレイ)をしただろうと思いますし、かといって彼の能力を遊ばせておけるほど政界に人材が溢れているかというと全くそんな事は無いわけで。本当に、人の使い方というのは難しいものです。


遡って言えば、猪瀬さんが続けていれば何の問題も無かったようにも思います。しかし政治の世界に不慣れという経験不足や打たれ弱さ、そして有能ではあっても人望を得られるタイプでは無いという個人の資質を考えると、やはり長期政権は無理だったように思えて来ます。能力と言っても色んな要素を含みますが、仕事ができても一緒に仕事をしたいと思えないタイプと言われてしまう辺り、特定の能力(この場合は人望)を大きく欠くと他の能力をどれほど磨いても挽回が難しいという現実には考えさせられるものがありますね。



■参院選

こちらも、与党にも色々と問題があるのに野党がそれ以上に酷いからどうにもならないという哀しい結果になりました。

野党が出す経済政策がお粗末なのは相変わらずですが、憲法などの問題をテーマにするにしても他にやりようが無かったのかと思います。例えば、控えめに言ってもかなり酷い出来映えの自民党の憲法改正案の中からとりわけ酷い箇所を抜き出して、それらを具体的なテーマとして取り上げて議論してくれたら応援する気になったかもしれませんが、極論を出して改正反対を唱えるだけでは広い支持を得る事は難しいと思います。

しかしそれ以上に、分配中心の経済政策で財源の根拠もなく理論的な背景もなく、更に民進党に限って言えば仮に与党になってもその時点で前言を翻して金を出し惜しみする展開になるおそれが非常に高く、政権交代から四年が過ぎても何の反省もなければ何も成長していない状態なのが辛いですね。それでも自民一強への対抗という期待だけでも一定票を得られるのだから、偉そうな物言いになりますがもう少し見聞を広げて欲しいものです。上にも書いたように、本当に左派の方々って80年代から変わっていないのが哀しいですね。


アベノミクスについては毀誉褒貶が極端ですが、極論を除いて一応の共通認識をまとめるならこんな感じでしょうか。

・消費増税は失敗。
・成長戦略(構造改革、規制緩和)は目立った成果を出せていない。
・財政は効果はあっても限定的(だから無駄なのか、だから額を増やすべきなのかは意見が分かれる)。
・金融は一定の結果を出している(だから更に金融緩和を進めるべきか、だけど銀行貸し出しに繋がらず問題点も多々あるから縮小すべきかは意見が分かれる。インチキ云々の反論は論外)。

個人的には、海外の経済政策を評価する時と同様に失業率の数字を重視するなら、概ね評価されるべきではないかなと思います。そして年配の方々が何を言おうとも、新卒一括雇用の慣習が根強い我が国では失業率が悪化した時期に卒業を迎えるか改善した時期に卒業できるかでその後の人生が大きく変わる可能性が非常に高く、故に失業率を低下させたという一点だけでも現政権の経済政策はプラスの評価にして良いように思います。安倍政権の経済政策の全てを肯定するという意味ではなく、総合的に見ると(実質的には金融政策のお陰で)良い結果の方が上回っているのではないかと。


昨今は報道姿勢の偏りが更に顕著になったり報道内容が浅いものが更に増えている印象で何だか哀しいですが、究極的には誰がどの政党が勝利を収めようとも社会全体として良い方向に向かってくれる事を願いたいものです。例えば株価が暴落したとか年金運用がマイナスになったと言って嬉々として与党を責めるような記事ではなく、国民としてその損害を被る関係者の一員として、それをどう受け止めたら良いのかという論説を私は読みたいと思いますし、そうした視点を持つ方々が増えて欲しいものだなと思います。


最後は少し偉そうな事を書きましたが、世の中が少しでも良い方向に向かってくれるように、政治家の方々を始め一般庶民の我々も含めて、各々ができる事をできる範囲で実行したいものですね。


以上、今日はこれにて。

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今月はサボり。

私は元気です。

レアル・マドリード対アトレティコ・マドリード

ちょっと余裕がないので、まとまりに欠けるかもしれませんが、ざっと試合を振り返ります。


■ジダン監督の采配

ジダンの采配は所々で良く解らない、というのが正直なところ。詰めの甘い部分は色々とあるのですが、それが問題になるより前にしっかりと仕込んだ部分が成果に繋がって結果を出しているという印象です。

大まかに言うと、切り捨てる部分を選ぶのが上手いという点が監督としてのジダンの最大の長所で、逆に状況の変化に対応しきれないという点が最大の短所かなと思います。


この試合でジダンが選んだのは、相手にボールを渡した上でのショート・カウンターでした。まるで相手のお株を奪うかのように、前半のアトレティコのビルドアップを妨害する守備はよく練られたものでしたし、自陣の後方から繋ぐ事に執着しない辺りも監督の意図が選手に浸透していたと思います。

とはいえ、レアルは伝統的にボールを持って攻撃するチームですし、守備のタスクを選手に徹底するのは難しいものです。ジダンの選手時代の実績がそれを可能にしているという分析もありますが、例えばモウリーニョ時代と比べると守備面での拙さはありますし、つまり選手に守備の意識を徹底できているとは自分には思えませんでした。


それが表面化したのは後半になってアトレティコが4-3-3に変更してからでした。この試合のレアルは4-4での守備を基本としていて、たまにロナウドが守備に加わると4-1-4に移行する形。その辺りの判断はカゼミロやクロースに任されている印象でした。しかしアトレティコがサイドに選手を多く置くようになると、カバーの決まり事などがあやふやだったのでそこからチャンスを作られたり、ゴール前で相手選手に前を向かせる場面も増えて来ました。

こうした状況に対して、ボール保持を高める為にイスコを投入したり、右サイドの守備を手助けする為にルカス・バスケスを投入するのは、理由としては理解できるものでした。しかし、それをピッチ上の他の選手が理解していたかというと難しいものがあります。特に前線の選手達としては、前半同様に全体的に押し上げて、カウンターであれポゼッションであれ自分たちの攻撃の時間を増やしたいという気持ちが強かったように思います。


こうした明らかな綻びがありながらも、ジダンのチームは失点を1に抑える事に成功します。この辺りは「ジダンは運命の女神に愛された存在だ」という分析に頷きたくもなりますが、一方で監督としてのジダンのバランス感覚ゆえではないかと思う気持ちもあります。

仮定の話ですが、もしもベニテスやモウリーニョが指揮を執った場合、ジダンに比べて選手に要求する守備面での動きはもっと複雑かつ多大なものになると思います。そして物事は、指示が長大でどんな状況にでも対応できる内容であるほど上手く運ぶかというと、決してそんな事はありません。むしろ、最低限の指示に絞ってそれを完璧に履行させる代わりに、指示以外の事については臨機応変にと現場に任せてしまう方が、良い結果に繋がる事が多々あります。

自分が考えるジダンの長所とはまさにそれで、そしてこれは短所と表裏一体のものでもあります。仮にアトレティコが同点に追いついた勢いのまま攻撃を続けていれば、大人しく敗北を受け入れる以外の選択肢は無かったと思います。



■ジダン監督の采配その2(クラシコ)

ここで、今シーズンのレアルにとって転機となった一戦。先月の敵地でのバルセロナ戦を少し振り返っておきます。


この試合でもレアルの守備は4-4が基本で、ロナウドが戻って来るなら余った一人が相手のボール保持者にプレスを掛けるか、それとも中盤の底で一人余らせるかという仕組みでした。ロナウドは確かに自陣深くまで下がって守備を頑張る場面もありましたが前線に残っている時もあり、守備面での貢献は巷で褒められているほど確実ではなかったように思いました。ベンゼマのブスケツへのマークはさほど厳しいものではなく、バルセロナのビルドアップを妨害できていたかというと微妙でした。

微妙な点は他にもありました。まず4-4の守備が中央に偏っていて、サイドに選手を増やされたらどう対応するのかという不安が残りました。クラシコではメッシもネイマールも中央突破に執着したので大した問題にはなりませんでしたが、この点は先に述べたようにアトレティコに付け入られる隙となりました。

更に、前半はボールを奪った後のビルドアップが整備されておらず、BBCが自陣の深い位置からダッシュをして少人数で攻撃を終わらせるしか方法がありませんでした。こうした幾つもの綻びゆえに、後半にバルセロナが先制した時点で勝負は決したかと思いました。


しかし、長所が場合によっては欠点にもなるように、付け入る隙だと思われた点が状況が変わると利点になることもあります。前半はBBCのスプリント頼みだった攻撃のお陰で、他の中盤の選手は体力を温存することができました。バルセロナ相手に後半の途中でバテてしまう展開はレアルに限らずよく見られる現象ですが、この試合のレアルの選手達は後半の終了間際まで走れる体力が残っていました。

また、前半に相手の攻撃を受け続けたことで、早い時間に相手のボール回しに慣れたのも有利に働きました。後半のマドリードは相手のビルドアップを妨害できる選手配置になっていて、これは事前の準備に前半の経験が加わることで精度の高いものになっていました。おそらくこの時の経験がアトレティコ相手の前半にも活きたのではないかと思います。

同点に追いつく少し前からのレアルの攻撃は素晴らしく、そして内容そのままに逆転で勝利という結果も得ました。アトレティコほど守備面での完成度はなく、バルセロナほどポゼッションからの攻撃の精度が高いわけではなく、しかし短所を晒しつつも長所で相手を押し切れるクラブ。中でも相手のビルドアップを妨害してからのショートカウンターの冴えが抜群の、対戦相手にとって嫌なチームが、この時に完成したのではないかと思いました。



■シメオネ監督の采配

まず采配の話の前に、アトレティコの最大の強みが守備であるのは確かですが、彼らとてスペインのクラブであるだけにポゼッションは普通にできます。つまりボールを持たされてもそれほど苦にせず、レアルやバルセロナ相手であっても自ら攻撃を仕掛ける時間帯を作る事ができるチームです。この事は過去のリーガ・エスパニョーラでの試合を見れば判ることだと思います。

つまり、この試合の前半にアトレティコのビルドアップが上手くできなかったのは、彼らに原因があるのではなくレアルの守り方が上手かったからだという事です。先に述べたように、クラシコの後半にはバルセロナのビルドアップにすら対応していた面々が相手です。前半の光景だけを見てアトレティコはボールを保持しての攻撃が下手だと断じるのは勿体ないことだと明記しておきたいと思います。


さて、そんなわけで先手を取られたアトレティコでしたが、先制した後のレアルが少し引いたことで徐々にボールが運べるようになり、そして後半からシステムを変更することで試合の流れを引き寄せることに成功しました。しかし同点に追いついた後、2トップに戻したことで自ら得た流れを失いました。

残念だったのは、延長上等という姿勢に見えたのに延長に入ってからも積極的に前に出られなかった点でした。前回の決勝で90分で力尽きたトラウマがあったからか、それともピッチ環境が悪く敵味方ともに足を攣る選手が続出したのが誤算だったのか。仮に90分で決着を付けるという意識で同点後も戦っていれば、試合はほぼ確実に彼らのものだったように思います。


シメオネ監督の采配については、去年までで既にスタイルが完成しているだけに、予想外の一手というものはありませんでした。とはいえ、ほぼ同じメンバーで4-4-2から4-5-1から5-4-1まで細かなバージョン違いも備えつつ変化させられるのは、監督がチームを完全に掌握している事と戦術に深い理解がある事の証拠ですし、それ以上を求めるのも難しいように思います。

バイエルンのグアルディオラ監督もですが、できる事を最大限に突き詰めてチームの弱点を徹底的に克服して来た監督が最高の結果には届かず、一方で素人目にも幾つか隙があるように思えるチームが最高の結果を得られるというのは、ある種のアイロニーでもあり、しかし納得できる展開でもありますね。



■おしまい

最高の結果を残したジダン監督ですが、来シーズンはチームがより攻撃を志向することになるのでしょうし、そこでの舵取りは難しいものになると思います。少し前にチェルシーでCL優勝を果たしたディ・マッティオ監督と境遇が似ている気がして不安になりますが、彼ならではのバランス感覚で内容と結果を両立させてくれる事を願っています。

シメオネ監督は退任の可能性もあるとの事ですが、彼の存在なくしてリーガで二強と争う事も、CLで優勝を目指す事も難しいと思うので、何とか気持ちを切り替えて今季と変わらぬ強いチームを来期も見せて欲しいものです。

ユーロは参加国が増えてレベルが落ちそうですし、コパ・アメリカは去年に続いての開催で、サッカーを見るモチベーションが低下気味ですが、来期もまたレベルの高い戦いを見られる事を願いつつ。
今日はこれにて。

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2段階ジェネレイション・ギャップ

タイトルが言いたかっただけの駄文です。


■ゲームの話

最近までアイドルマスターというゲームに熱中していた若いA君のお話。
A「アイドルマスター、分かります?」
B「なんか、プロデュースするんやろ?アイドルが大勢いて」
A「ですです」
B「めちゃめちゃ大勢いるらしいな〜」
A「そうなんですよ!プリキュアを遥かに上回ってますからね」
B「え、プリキュアってそんなにおるん?」
A「あ、ええ、そうなんですよ」
B「ほ〜」
A「でもですね、アイマスはなんと!」
B「なんと?」
A「今やポケモンより多いんですよ!」
B「え、ま、マジですか?」
A「びっくりでしょ?!」
B「お〜、すげ〜!」
ノリで答えてみたものの、ポケモンがどれほど沢山いるのか、何も知らない聞き手なのであった。。

若い人が気を使って昔の話に喩えてくれたけど、実はその喩えにすら付いていけていないという哀しい状況。これを2段階ジェネレイション・ギャップと呼ぶことにしたい。なお参考までに、聞き手はだいたいポケモン以降≒プレステ以降のゲームに付いていけなかった模様。

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震災から5年

東北の震災から五年が過ぎて今日は報道もそれ一色でしたが、少し考えた事について以下で書き残しておきます。一言でまとめると、我々の課題は専門家を糾弾する事ではなく、むしろ我々自身が専門家を活かす術をどのようにして体得すれば良いか考えるべきではないか?というお話。


まず最初に前提として、特定の専門分野(例えば、理学部/基礎物理/素粒子/原子核とか)の修士や博士であっても、更には講師や助教や時には教授ですらも、間違える時は間違えるという事を許容する事が大事なのではないかと。専門家が間違える事を許さない風潮がありますが、それだと当たり障りのない発言が蔓延ったり責任逃れからの強弁が多くなるだけで、問題の解決を遅らせるケースが多い事を認識すべきではないかと思うのです。

同時に、残念ながら専門家と言ってもピンからキリまで居るわけで、彼らの優劣を門外漢がどう判定すべきなのか考える必要があると思います。この場合、発表した論文によって広く世界的に評価されている事が(特に理系分野では)一番信頼に足る根拠になると思いますし、少なくとも、多数の市民が妥当と考える結論に阿る人や、間違いを犯した同業者を理論には則らず感情的に激しく攻撃する方々は評価を一段下げるべきかと思います。

とはいえ、経済分野などで顕著ですが、具体名を挙げずに「海外の有名な専門家も皆反対している」といった報道が(実は事実無根なのに)なされる事も多く、一方で論文を書いた事もない人が一流の学者であるかのように扱われたりと、やはり素人では専門的な意見および専門家を査定するのは難しいように思います。報道の裏を取ったり、その人が発表している論文を調べたりする事は、能力的にも時間の余裕という点からも、一般の人にとってハードルが高いからです。


こうした難しい状況を打破する手助けになるのは、普通の人よりも該当分野に少しだけ詳しい(過去に学部や院で勉強した)市井の方々だと思います。しかし、卒後も地道に勉強を続けている人はごく少数で、大抵は知識の抜け落ちが激しい上に、どの分野であれ10年も経てば色んな進歩があり変化があるので、昔の知識は役立たない事が多くなります。

原発事故の際、当時の菅首相は「僕はものすごく原子力に詳しい」と発言したそうですが、元総理が東工大を卒業してから40年も地道に勉強を続けていたとはとても思えず、少なくとも現役の専門家の方々を差し置いて指示を出せるほどの域には無かったという話です。しかし、もしも身近に物理学科卒の人が居たとして、その人が卒後は全く勉強をしていないと知っていたとしても、多くの人は「自分よりはマシだろう」と考えてしまうのではないかと思うのです。

同じように、大学で専攻した事はなくても個人的に関心を持って当該分野の本を何冊か読んでいる人が居るならば、やはりその人の意見は世間で尊重される事になると思います。しかしこの場合、スタートが素人である為に専門書の選択が偏る可能性が高く、酷い場合には基礎も修められていない素人が出した本を素人が読んで、その結果間違った知識を広めてしまう事にもなりかねません。一方で、大学では別専攻でも、その分野の基礎を身に付け説得力のある助言をしてくれる人が居るのも確かです。では彼らをどう峻別すれば良いのか?


大学や院で多くの専門文書や論文を読まされた経験のある人なら、他分野であっても物事に対する姿勢によって、信頼に足るか否かを判断する事ができると思います。例えば、その人が基礎や過程を大切にしているのか、それとも結論の羅列を暗記しているに過ぎないのか。わからない事をわからないと言えたり、既に表明した自分の意見にも検証の意識を持ち続けたり。力強く断定する口調の裏に、求められれば根拠を筋道立てて説明できるという自信が感じられたり。そうした姿勢が窺える人は、概ね信頼に足ると言えるのではないかと思います。

ここで大切なのは、自らの意志で専門書を読み、たとえそれが専門家からは一笑されるような作品であったとしても。得た知識が偏ったものであったり、著述を丸暗記しているだけで意味を理解できているとは思えないとしても。わからない事にも積極的に口を挟み、自らの間違いを決して認めず、根拠もないのに断定を繰り返し。反論に対しては話を本筋からずらしたり感情的な反応をしたり、酷い場合には反論して来た人の人格を攻撃したり。そんな人でも、「自分も詳しく知りたい」と思い関連書籍に向き合った事は評価すべきだという事です。そして可能であれば、そうした方々が一般の人から信頼される域に達するのを手助けするような意識を持てれば、と思うのです。


結局のところ、間違った専門家を糾弾する事も、基礎も知識も足りない専門家気取りの人を馬鹿にする事も、行動の本質としては大差がないと思います。それよりも、彼らを頼りがいのある専門家や助言者に育てるにはどうすれば良いか。有事においてそうした役割を果たして貰うにはどうすれば良いか。そうした視線で彼らに対する事が、長い目で見ると被害を小さく抑える事に我々が貢献できる一番の選択ではないかと、そんな事を考えていたのでした。

なお、彼らの成長を手助けする具体的な行動ですが、反論する時にはきちんと反論を述べる事が大事だと思いますが、これも素人には難しい事だと思います。とりあえずは、彼らの主張を根気強く聴く事や決して見捨てはしない事、そして彼らの思った事を記録するように勧める事が地味ながら重要かなと考えています。自分が定期的に文章を書く理由の一つでもあるのですが、書き残しておいたものを再読する事は反省にもなり、そして成長を自覚させてくれる事にもなるからです。


以上、何だか大雑把な話になりましたが、そんな感じで今日はこれにて。

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"What I believe" by ALBERT EINSTEIN

先週の重力波観測成功というニュースを受けて、いつか訳したいと思っていたアインシュタインのエッセイに取り組んでみました。至らぬ点や気になる点などがあれば、お気軽に指摘して頂けると嬉しいです。なお、英文はこちらから拝借しました。



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"What I believe" by ALBERT EINSTEIN

「我が信念」アルベルト・アインシュタイン


STRANGE is our situation here upon earth. Each of us comes for a short visit, not knowing why, yet sometimes seeming to divine a purpose.

この地球上における我々の状況は奇妙なものだ。ここで我らは各々短い生涯を送る。それが何故とは知らぬまま。しかし時に、その目的を見抜いているかのように。


From the standpoint of daily life, however, there is one thing we do know: that man is here for the sake of other men — above all for those upon whose smile and well-being our own happiness depends, and also for the countless unknown souls with whose fate we are connected by a bond of sympathy. Many times a day I realize how much my own outer and inner life is built upon the labors of my fellow men, both living and dead, and how earnestly I must exert myself in order to give in return as much as I have received. My peace of mind is often troubled by the depressing sense that I have borrowed too heavily from the work of other men.

とはいえ、日常生活の観点から、我々がよく知っている事が一つある。すなわち、人は他者の為にここに存在しているのだと。とりわけ、その人の笑顔や安寧によって自分まで幸せな気持ちになれる人達の為に。そして同じく、共感という絆によって運命的に結びつけられた無数の名もなき人達の為に。一日に何度も私が思い知らされるのは、私自身の生活が物心ともに我が同胞達の多大な仕事によって成り立っていて、現存している同胞のみならず既に鬼籍に入った先人の業績からも莫大な恩恵を受けているという現実であり。更に、私が受け取っただけのものをお返しする為には本気で努力しなければならないという実感である。そして我が精神の平穏はしばしば乱れる。私が借り受けた他の人の労があまりに膨大で、とてもお返しできないのではないかと落ち込んでしまうのである。


I do not believe we can have any freedom at all in the philosophical sense, for we act not only under external compulsion but also by inner necessity. Schopenhauer's saying — "A man can surely do what he wills to do, but he cannot determine what he wills" — impressed itself upon me in youth and has always consoled me when I have witnessed or suffered life's hardships. This conviction is a perpetual breeder of tolerance, for it does not allow us to take ourselves or others too seriously; it makes rather for a sense of humor.

哲学的な意味では、我々はいかなる自主性も有しえないと私は思う。というのも、我々の行動は外部からの強制のみならず内的な要求にも左右されるからである。「確かに人は自身が望むことを行い得るが、自分が何を望むかを決めることはできない」というショーペンハウエルの言葉に、若き頃の私は感銘を受けた。以来その言葉は、私が人生の過酷さを目の当たりにして悩んでいる時に、いつも私を慰めてくれた。「自主性を持ち得ない」というこの確信のお陰で、私は終身に亘って機能する耐性を得たのである。というのも、自分自身や他人の存在を必要以上に深刻に捉えずとも済むように、むしろある種のユーモアとして捉えられるようになったからである。


To ponder interminably over the reason for one's own existence or the meaning of life in general seems to me, from an objective point of view, to be sheer folly. And yet everyone holds certain ideals by which he guides his aspiration and his judgment. The ideals which have always shone before me and filled me with the joy of living are goodness, beauty, and truth. To make a goal of comfort or happiness has never appealed to me; a system of ethics built on this basis would be sufficient only for a herd of cattle.

自身の存在理由について、或いは人生の意味について延々と熟考することは、客観的に見て全くの愚行であると私は思う。然れども人は皆ある種の理想を抱いていて、それが各々の願望や判断を導く基準となっている。私が抱く理想、いつも我が人生を輝かせ生きる喜びを与えてくれた理想とは、善、美、そして真である。私は決して快適さや幸福を目標にしようとは思わなかった。こうした快適・幸福を基準に構築された倫理体系は、家畜の群れになら充分なのだろうが。


Without the sense of collaborating with like-minded beings in the pursuit of the ever unattainable in art and scientific research, my life would have been empty. Ever since childhood I have scorned the commonplace limits so often set upon human ambition. Possessions, outward success, publicity, luxury — to me these have always been contemptible. I believe that a simple and unassuming manner of life is best for everyone, best both for the body and the mind.

芸術や科学の研究において未到の事柄を追求する際に、目的を同じくする人達と共同で取り組むという意識がなかったならば、私の人生は空虚なもので在り続けただろう。幼少の頃からずっと、人の願望をあれこれと制限する陳腐な事どもを私は軽蔑していた。財産や、外見上の成功や、名声や、贅沢品といったものを私は常に下劣なものだと見なしてきた。私が思うに、簡素で控えめな生活様式こそが万人にとって最上のものであり、肉体と精神の両者にとっても最良のものであろう。


My passionate interest in social justice and social responsibility has always stood in curious contrast to a marked lack of desire for direct association with men and women. I am a horse for single harness, not cut out for tandem or team work. I have never belonged wholeheartedly to country or state, to my circle of friends, or even to my own family. These ties have always been accompanied by a vague aloofness, and the wish to withdraw into myself increases with the years.

社会における正義や責任に対して私が強い関心を抱いている事は、他者との直接の付き合いを望む気持ちが際立って欠けている事といつも奇妙な対照をなしている。私はいわば一頭用の馬具を身に纏った馬であり、二頭あるいは複数での共同作業には向いていないのだ。私は国家や政府に心から帰属していると思った事は一度も無いし、私を取り巻く友人達や、自分自身の家族に対してすら同様であった。こうした紐帯は曖昧で超然的な事由により生じたもので、自分自身の中に引き籠もりたいという願いは年を経るごとに大きくなった。


Such isolation is sometimes bitter, but I do not regret being cut off from the understanding and sympathy of other men. I lose something by it, to be sure, but I am compensated for it in being rendered independent of the customs, opinions, and prejudices of others, and am not tempted to rest my peace of mind upon such shifting foundations.

この手の孤立は時に苦く辛いものであるが、他者からの理解や同情を絶った事を私は後悔していない。それによって私が何かを失ったのは確かだが、その代わりに私は他人の慣習や評価や偏見から無関係でいられた。私は、その手の移ろいやすい根拠で心の平穏を得ようとは思わなかったのだ。


My political ideal is democracy. Everyone should be respected as an individual, but no one idolized. It is an irony of fate that I should have been showered with so much uncalled-for and unmerited admiration and esteem. Perhaps this adulation springs from the unfulfilled wish of the multitude to comprehend the few ideas which I, with my weak powers, have advanced.

私が理想とする政治とは民主政である。全ての人は個人として尊重されるべきだし、誰であれ崇拝されるべきではない。だが運命の悪戯と言うべきか、私は自分にとても釣り合わない身に余るほどの賞賛と評価を浴びたのだ。この手のお世辞はおそらく、微力ながらも(*1)私が提唱した少数の概念を、理解したいという人々の満たされぬ願いから出たものであろう。


Full well do I know that in order to attain any definite goal it is imperative that one person should do the thinking and commanding and carry most of the responsibility. But those who are led should not be driven, and they should be allowed to choose their leader. It seems to me that the distinctions separating the social classes are false; in the last analysis they rest on force. I am convinced that degeneracy follows every autocratic system of violence, for violence inevitably attracts moral inferiors. Time has proved that illustrious tyrants are succeeded by scoundrels.

私がつくづく思い知らされたのは、明確に目標を成し遂げる為に必須なのは自分で考えて自分で指示を出す事であり、それは責任の大半が伴うという事である。とはいえ誰かに導かれる立場であってもそれを強いられるべきではなく、自らの指導者を選択できる事が肝要であろう。社会において階級別に差別する事は間違っているように私は思う。というのも最終的には力が物を言う社会になるからである。暴力に基づく独裁制は全て堕落を生じさせると私は確信している。何故なら暴力は必然的にモラルに欠ける人々を引きつけるからである。歴史が証明しているように、傑出した専制君主の後を継ぐのは悪党なのである。


For this reason I have always been passionately opposed to such regimes as exist in Russia and Italy to-day. The thing which has discredited the European forms of democracy is not the basic theory of democracy itself, which some say is at fault, but the instability of our political leadership, as well as the impersonal character of party alignments.

こうした理由から、今日ロシアやイタリアに存在する類いの政権に対し、私は常に強く反対して来た。欧州における民主制の信用を傷つけている要因は、それこそが元凶だと言う人も中には居るが民主主義の基礎理論そのものではなく、我々の政治的な指導力が不安定であるからである。提携する政党同士が冷めた関係にある事も同様に大きな要因なのだが(*2)。


I believe that you in the United States have hit upon the right idea. You choose a President for a reasonable length of time and give him enough power to acquit himself properly of his responsibilities. In the German Government, on the other hand, I like the state's more extensive care of the individual when he is ill or unemployed. What is truly valuable in our bustle of life is not the nation, I should say, but the creative and impressionable individuality, the personality — he who produces the noble and sublime while the common herd remains dull in thought and insensible in feeling.

アメリカ合衆国の人々は正しい思い付きをしたものだと私は思う。相応の任期を定めて大統領を選び、適切に責任を遂行できるだけの充分な権力を与えている。他方でドイツ政府について私が好ましく思っているのは、病人や失業者に対する個人保障がより幅広く実施されている点である(*3)。我々の忙しない人生において真に価値があるのは国家ではなく、独創的で感受性に優れた個性であり、為人であると。思考が冴えず感受性も鈍い愚劣な群衆を尻目に、気高く卓越したものを生み出す人であると。私はそれを声を大にして言いたい。


This subject brings me to that vilest offspring of the herd mind — the odious militia. The man who enjoys marching in line and file to the strains of music falls below my contempt; he received his great brain by mistake — the spinal cord would have been amply sufficient. This heroism at command, this senseless violence, this accursed bombast of patriotism — how intensely I despise them! War is low and despicable, and I had rather be smitten to shreds than participate in such doings.

この手の議題を語る際に私の頭に浮かんでくるのは、あの不愉快極まる家畜精神の申し子、唾棄すべき義勇軍(*4)の事である。列を組み縦隊で音楽の旋律に合わせて楽しげに行進する彼奴には、軽蔑すらも生ぬるい。脊髄ばかりは十二分かもしれないが大脳が伴っていない輩。命令下にあって英雄気取り、無分別な暴力、忌まわしくも大袈裟な愛国発言。それらの事どもを私がどれほど嫌悪している事か!戦争は下劣で卑しむべきもので、そんなものに関与するくらいなら自分がずたずたにやられる方がましだ。


Such a stain on humanity should be erased without delay. I think well enough of human nature to believe that it would have been wiped out long ago had not the common sense of nations been systematically corrupted through school and press for business and political reasons.

その手の人道上の汚点は即座に消し去るべきである。私は人間性についてよくよく考えた末に以下の結論に至った。もし仮に国家としての良識が、営利的な理由や政治的な理由によって、学校や報道を通して組織的に堕落していなければ、そうした汚らわしい事はとうの昔に一掃できていただろうにと。


The most beautiful thing we can experience is the mysterious. It is the source of all true art and science. He to whom this emotion is a stranger, who can no longer pause to wonder and stand rapt in awe, is as good as dead: his eyes are closed. This insight into the mystery of life, coupled though it be with fear, has also given rise to religion. To know that what is impenetrable to us really exists, manifesting itself as the highest wisdom and the most radiant beauty which our dull faculties can comprehend only in their most primitive forms — this knowledge, this feeling, is at the center of true religiousness. In this sense, and in this sense only, I belong in the ranks of devoutly religious men.

我々に可能な最も美しい体験とは、謎めいた神秘に触れる事である。それは真の芸術や科学の真髄など全ての源である。神秘を前にして心を動かされた事のない人、もはや感嘆する事もなく畏敬の念に打たれる事もない人など、死んでいるのも同然だ。目を閉じてしまっているのだ。人生の神秘に対するこうした洞察は、畏怖の念も伴うのだが、宗教心を引き起こす事にもなる。我々にとって不可解な事が現実に存在するのだと認知する事。我らの鈍い能力では初歩的な形で理解するのが精一杯ではあるものの、それが至高の知として、そして燦然と輝く美の極致として顕現するのだと認識する事。この知識、この感覚こそが真に信仰心に篤い人々の根源を成しているのである。この意味で、そしてこの意味においてのみ、私は敬虔で信心深い人々の階層に属しているのである。


I cannot imagine a God who rewards and punishes the objects of his creation, whose purposes are modeled after our own — a God, in short, who is but a reflection of human frailty. Neither can I believe that the individual survives the death of his body, although feeble souls harbor such thoughts through fear or ridiculous egotism. It is enough for me to contemplate the mystery of conscious life perpetuating itself through all eternity, to reflect upon the marvelous structure of the universe which we can dimly perceive, and to try humbly to comprehend even an infinitesimal part of the intelligence manifested in nature.

自らの創造物を賞したり罰したり、行動の目的が我々自身を基に作られているような神。要するに人間の弱さを反映しているだけの神。そうした神の存在を私は思い浮かべる事が出来ない。同様に私は、恐怖や馬鹿げた自己愛から虚弱な精神にはそうした発想が宿るものだとはいえ、人が肉体の死を克服できるとも思えない。意識ある人生という永遠に不滅の神秘を鑑賞する事、我々がほのかに感知できている驚くべき宇宙の構造について熟考する事、そして自然界にて明示されている知性のほんの一欠片でも理解しようと謙虚に努める事。私としてはそれで充分に満足なのである。


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(*1)いわゆる「弱い力」を意識した言い回しかと思ったのですが、フェルミのβ崩壊の理論は独伊語で1933年投稿・1934年出版、英語で1939年出版との事なので普通に訳しました。

(*2)ドイツでは世界大恐慌への対策が議会の反対勢力や与党内の足並みの乱れなどで遅々として進まず、状況打破を目指してこの文章のわずか一ヶ月前に(1930年9月)行われた総選挙は、左右両極の躍進という期待とは正反対の結果に終わりました。この選挙で第二党に躍進したナチ党は存在感を高め、そして1933年1月、遂にヒトラーは首相となりワイマール共和国は事実上崩壊しました。アインシュタインがこれほど嫌っていた独裁者が、彼の母国で誕生してしまったのです。

(*3)1924年から疾病保険の強制加入者の範囲が拡大され、1927年には失業保険法が制定されました。しかしこれらは恐慌の際に大変な重荷となりました。1928年に65万人だった失業者は(失業率5%)、1930年末には400万人を越えました。

(*4)ドイツ義勇軍(フライコール)は第一次世界大戦後の混乱の中で出現し、治安や軍事面で重要な役割を果たしたのですが異常な残虐行為など問題も多く、混乱の種になっていました。後のナチ党の指導者や党員には義勇軍出身者が多数存在します。文脈からは義勇軍よりもナチ党の突撃隊(SA)を念頭に置いているようにも思いました。


参考:林健太郎「ワイマル共和国」(中公新書)、入江隆則「敗者の戦後」(文春学藝ライブラリー)

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早くも一月が過ぎる。

何か書こうかなと思っているうちに気付いたら一月が終わっておりました。
今年も宜しくお願いします。

今年を振り返って

今年を振り返ってみると、昨年まではできていた事が色々と出来なくなった一年でした。例えば音楽を例にとると、一昔前であればフジロックとサマソニに来るミュージシャンは一通り耳を通してチェックしていたものですが、ここ数年はフェスが終わった後にライブ映像で後追いするのが精一杯になり、遂に今年はそれも満足に出来ずじまいでした。

では音楽を聴かなくなったのか?というとそんな事はなくて、ただ既存の曲にしろ新曲にしろ、一曲を吟味する時間が長くなったのだと思います。充分に聴き込んだと思っていた楽曲に新たな発見を多く見出したり、最新の楽曲から連想される別の曲をあれこれ参照しながら繰り返し聴いてみたり、今年はそんな傾向が強くなった一年でした。


読書に関しても同じようなもので、毎月発売される興味深い著作のあれこれを追うのが次第に難しくなり、その一方で、軽い読み物はネットで、難解な読み物は古典的な名作で、いずれも関連書を渉猟しながらなので寧ろ読む量としては増えている気がするのですが、きちんと読了した冊数となると格段に減ってしまったように思います。

ネットの利便性は今更口にするまでもないですが、本当に世の中には楽しく面白く興味深いものが沢山あり、いかに自分が何も知らぬ状態であったかを思い知らされるとともに、あやふやな記憶やふとした疑問から広がる世界を眼前に提供してくれるネット検索の恐ろしさが改めて身に沁みた一年でした。


物事をより深く知りたいという方向性は変わらないと思いますが、来年はもう少しまとまった形での読書や音楽・映像鑑賞を心掛けたいと思います。読書を例にとると、ある書物を切っ掛けに色んな方向へ手を広げる読み方だった今年とは趣を変えて、関連する色んな情報を手掛かりに特定の書物を読み解く方向で行こうかなと思っております。


今年を振り返ってみると、音楽領域では紅白のラインナップを見ても解る通り、特に国内ではヒット曲というものが一段と見えにくくなった年だったと思います。出版分野では、ピケティの経済書が異常な売り上げを記録していると聴いた時には、古き良き教養主義の香りを感じて嬉しくなったものでした。そして、件の書が政権批判に益さないと判明した途端に話題に上らなくなった事には落胆したものでした。

政権側からの「批判を許さない」とする無言の圧力も依然問題ですが、反対派の「何でも良いから批判しろ」という節操のなさとそれの強制も困ったもので、来年も同じ構造のまま続きそうなのが不安ですね。経済の行方も不透明ですが、全て賛成か全て反対かで色分けを強いるのではなく、コストと効果、利点と欠点、短期と長期の影響などを議論し合える環境が広まって欲しいものです。


いずれにせよ、個人的にも広く一般にも、来年が良い年になりますよう願いつつ、今年はこれにて。
皆様も良いお年を。