歴史的雑談3〜読史余論

年内に何か書こうかと考えた時に、今年亡くなられた方の話とか読んだ本の話とか、久しく放置している音楽の話とかスポーツの話とか、色々な選択肢を考えていると、ふと今回は読んだ本の中で毛色の違うものについて書いてみるかと思い立ったので、表題の件について。なお、毛色の違いとは、今年発売でも話題になったわけでもなく、自分としてもまさか読むとは思わなかった…という意外感が一番大きな作品という意味です。


さて、新井白石の「読史余論」(岩波文庫)をなぜ読む事になったのかというと全くの偶然からなのですが、読み始めの数ページは後悔が先に立っていました。何しろ、旧かな旧漢字は勿論ですが、2〜3行にわたって漢文が続く事も珍しくない状態でございまして。しかも、我が貧弱な漢文知識を思い出す限り、返り点の付け方が間違っているように思える箇所もちらほら散見され。。。果たして読了までにどれくらい時間が掛かるのやら?と、早々に投げ出しても不思議ではなかったのですが、案外に慣れるものだなぁというのがまた不思議な事でした。

その辺りの要因として考えられるのは、なんと言っても同じ日本語だという事、そして歴史に関する基礎知識がそれなりにあった事も読み進む上では手助けになりました。とはいえ、一番大きいのは解らない箇所はさっさと飛ばすという手抜き大好きの性格だったような気もしますが、その省エネ主義をあざ笑うかのように、講談社学術文庫から先月、現代語訳が出たのは哀しかったです。。。

ただ、件の現代語訳は第一巻の総論以外を収録しておらず、これはもともとの構成的に二巻と重なる部分がある故の決断だと思うのですが、そのカットされた部分にも面白い描写が幾つかあったので、以下で二点ほど取り上げてみたいと思います。


■頼朝の弟とか、やってられんよねという話

文中で白石は義経の赤心を繰り返し取り上げ、頼朝がいかに小心者で野心家だったかを訴えていました。そして、「頼朝がごときものの弟たらむ事、最難しとこそいふべけれ。」(p.73)という結論に至るわけですが。面白いのは、延々と義経を語っていたのに、その結論の直前に配された一文が義経の話ではない事。唐突に、「範頼ですら殺されちゃったんだから」という話になっているのが楽しいところ。案外これが本音なんだろうな、と。

この他にも、本書は歴代天皇の即位や摂関の就任を時系列に紹介しているのですが、鎌倉時代に入って「この先は摂関をいちいち書く意味もないよね」とぼそっと書かれていたり、白石の根が真面目な苦労人という性格がそのまま出ている記述が幾つかあって面白いです。

で、話を戻して義経について。例えば、孔子が尊敬した周公旦は兄の死後その遺児を助け、自らが簒奪する事は無かったという話ですが、一方で周囲の警戒感も半端ではなかったらしく。つまり、結果が確定している現在から遡って礼賛する事も、それを現実に当てはめる事も違うのではないかと思うわけで。義経の真心は…という話は小説や講談のネタとしては良いですが、実際のところは難しい気がします。

現実的に考えると、三種の神器を揃って奪還できなかった事は政治的に致命傷ですし、そもそも政治的な資質としては頼朝はもちろん後の足利尊氏にも遙かに及ばないわけで。仮に頼朝が早死にする事態になったとしても義経に我が子を託せるかというと疑問で、しかし武功はとてつもなく大きいと来ると、頼朝でなくても抹殺を考えるだろうなと。白石は頼朝が弟・叔父・従兄弟など一族8人を殺害したと書いていますしそれは事実ですが、人数の多さは頼朝の権力の大きさ故とも考えられますし、所領争いなどが原因で一族で殺し合う事が珍しくなかった当時では、範頼はともかく義経が寿命を全うするのは難しいだろうなぁと。

また、北条政子が仮名で貞観政要を発行させた事を考えると、古代中国諸王朝の歴史は武家の間でも基礎教養となっていたはずで。つまり、唐の太宗が兄の皇太子を殺害して即位した事、太宗を皇太子と競えるほどの地位に押し上げたのは彼の武功によるところが大きい事、そもそも父の高祖李淵が挙兵した当時は兄弟仲はいたって円満だった事、などはよく知られていただろうなと。更に、隋の煬帝も同様に、武功抜群で兄の皇太子を追い落として即位した事。その隋に取って代わられた北周でも事実上の王朝創始者である宇文泰の死後、遺児が即位はしたものの現実には甥の宇文護の独裁状態で、従兄弟達の廃位・殺害を繰り返した事を考えると、田舎の武士が教養に接して、果たして同族間の争いを自重しただろうか?といった疑問が出て来て興味深いですね。

で、話が散漫になりつつあるので、次。


■以仁親王という表記とその高評価の話

こちらは少し解らなかった点。確かに頼朝の挙兵に正当性を与えたのは以仁王の令旨ですし、挙兵後しばらくは王が存命で頼朝が匿っているかのようなはったりもありましたが、三善康信など中央とのパイプは挙兵当初から維持されていて、最終的には寿永二(1183)年十月宣旨で後白河院との手打ちが確定していますし。将門の二の舞を避けつつ半独立を公式に認めさせたい頼朝と、おそらくは安史の乱後に唐朝が河朔三鎮に対したのと同じ意識だったろう後白河が手打ちをしたこの時点で、一応は義仲が健在とはいえ以仁王の立場はほぼ謀反人として確定したと言って良いような気がするのですが。。

そもそも中央における以仁王挙兵の受け止め方は後白河〜高倉院政に対する明確な簒奪者という理解だったのでしょうし、それ以前に親王宣下すら得られていないわけで。王の挙兵を受けて皇籍剥奪が決定されましたが、九条兼実は「玉葉」の中でごく普通に、彼らしい見下しぶりが透けて見える書き方で、以仁王を源某と呼んでいますし。

にもかかわらず、白石は以仁王を正統と考え、後鳥羽践祚の時点で王の遺児をこそ即位させるべきだったと書いています。その後の展開を考えても、こうした朝廷の姿勢が変化しているとは思えず、いかに武家政権を開いた頼朝挙兵の発端だったとはいえ、以仁王を正統とする白石の評価は不思議な気がしました。もしかすると、愚管抄や神皇正統記との一番の違いはこの点なのかもしれず、もう少し考えてみたい疑問なのでした。


■おしまい

歴史はやっぱり楽しいものですね。という結論で、今日はこれにて。

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