楡家の人びと

また何も書かないままに一月以上が過ぎてしまったので、久しぶりに読んだ本の話を真面目に書いてみようかなと。という事で、先週の半ばに思わず読み始めてしまい、予想通りに熱中してしまった「楡家の人びと」について書いてみます。しかし、北杜夫さんが亡くなられた時に遠からず再読したいとは思ったものの、この時期に読む事になるとは思いませんでした。ちなみに、同じく昨秋に亡くなられた談志師匠の追悼特番は、いくつか録画したまま未だ観ておりません。。まあ、それはそれとして。以下は敬称略にて、珍しく硬い文体で書いてみます。内容についてはタブーなしで書く予定ですので、読む予定のある方は読了後にまたお越し頂ければ幸いです。


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 さて、本作『楡家の人びと』の魅力とは何だろうか?まず一言で表現するならば、それは「深みがあるのに読みやすい」という点にあるのは間違いのないところだろう。名作と名高い本作品を、その名声ゆえに手に取る事もなく敬遠している人は少なくないと思われるが、ひとたび手にとって読み始めてみると、それが全くの誤解である事が判るだろう。全編がこの作者ならではの暖かなユーモアに満たされている一方で、その描写は時に過酷なまでにある時代を切り取り、特殊な一族の姿を描き尽くしている。

 ところで、現在の文庫本には巻末に辻邦生の解説があるが、そこで彼はこう書いている。「永遠に終ってほしくないと思う作品」と。これもまた本作の魅力を伝えるに相応しい説明であり、小生としても心から同意するものである。また、彼は解説の冒頭にて、三島由紀夫の「この小説の出現によって、日本文学は真に市民的な作品をはじめて持ち…」という書評を紹介している。「これこそ小説なのだ!」とまで激賞した三島の推薦文は、しかしながら一つの疑問を読者に突きつける。引用の直後に辻邦生によって解説されてはいるが、果たして現在の読者にとって、市民とは何であろうか?という問いである。以下ではこの事についての考察を主眼に据えながら、時に脱線をしつつ読後の感想を書き記して行こうと思う。


 作品を再読する中で、その印象を変える最たる要因は、やはり読者の年齢であろう。例えば自分の場合、この作品の舞台となった大正7年(第一次世界対戦終了の年)から先の大戦直後の時代について、初読の時と比べて遙かに身近に感じられた。まるで自分が生きて経験した時代であるかのように、とまで言うとさすがに大げさだが、「ああ、そういう時代だったなぁ」と思えてしまうほどのリアリティが感じられたのは興味深いところだった。

 確実に現在に繋がる過去のある時代の雰囲気が加齢と共に身近になっていく一方で、作品に直接的に関係する知識もまた年齢に応じて自分の中に蓄積される。そしてそれは、本作のモデルとなった作者の一族と作中人物とを自然と比較する事に繋がる。例えば、作品の中では詳しく語られず消えていった浜子という少女は実は桃子たちと母違いの姉妹という設定だが、そこで読者は本作では基一郎の女性関係がさらりと流されている事に気付く。更に言えば、徹吉夫妻の別居においても龍子の異性関係はぼかされており、一方で聖子がその不幸な結婚相手とダンス場で知り合ったという設定が奇妙な符号として読者の目に意識される。こうした事は下衆の勘繰りであるし、幾つもの共通点があるとはいえ現実と小説を混同すべきではないが、作者が現実をどう取捨選択したのか考察してみる事はやはり愉しい事だと言わざるを得ない。


 ここで話を冒頭に戻す。「深みがあるのに読みやすい」と書いたが、では本作品の深みとはいったい何だろうか?これも一言で説明するならば、それは「人生を考えさせる」という事になるだろう。あるいは、この作品こそが人生そのものであると言って良いのかもしれない。

 まず、登場人物たちはそれぞれの資質の違いにかかわらず、俯瞰してみれば全ては時代に乗った結果であるようにも見える。つまり初代の成功も、火災による斜陽も、昭和初期の持ち直しも、終戦後の没落も、それは全て各々の時代を如実に反映している。特にそれは藍子において顕著であり、開戦直前までの闊達な彼女、麻布中学のとある男子生徒から饅頭を巻き上げるお茶目な彼女が、時代が急転した大戦のさなかには性格が急変し、その容姿も変貌を余儀なくされる。その母をして妹の聖子に似てきたとしみじみ思わせる場面は、一つの極であろう。

 また、全編を通しての主人公とも言える徹吉の場合は更に過酷である。理不尽としか言いようのない二度の火難で大量の蔵書を失った事ですらも、その人生を彩る一つの現象に過ぎないと思えてしまうほど、彼の一生はまさに仏教の教えで言う「一切皆苦」そのものであった。雪の中で少年期の追憶に身を委ねる場面は、やはり物語の中でも一二を争う山場であろう。彼の人生とは、いったい何であったのか!


 少し話を脱線させたい。物語に向き合っている時に他の作品が頭をよぎる事は、誰であれ経験する事である。実は再読するまで迂闊にも気付かなかったのだが、この徹吉の雪の場面は、『魔の山』の主人公ハンス・カストルプがスキーで遭難した時の事を連想させる。この時に得た悟りは、その後の物語世界の中で彼に何をもたらしたのか?ヨーアヒム、ペーペルコルンとショーシャ、ナフタ…。そうした存在感の強い登場人物たちが退場していく中で、彼がかつて得たはずのものは、あまりに無力だった。そして結末。彼の人生とは、いったい何だったのか?これはまさしく、徹吉のそれと全く同じものだったと言わざるを得ない。

 『楡家』と『魔の山』の関連でもう一つ書いておきたい。今回、読みながらナフタをふと連想した時があった。それは、米国がその稚拙な死についての哲学に懊悩している場面である。ナフタのキャラクターに親しんだ人にとっては、米国との比較は物足りないと思うかもしれない。余人からすれば健康に見える米国が死病に思い悩む、そのどこか滑稽な調子と比べ、自身の思想に対するナフタの姿勢はなんと異なって見える事か。しかし、その思索の質にかかわらず、彼らはともに最終的には、直接的か間接的かの違いはあれども、自らを滅するに至るのである。

 最初に書いたように本作は読みやすく書かれており、複雑で難解な哲学的思索などは登場しない。しかしそれは、本作が深みを持たない事とイコールではない。難解さを排した作者は決してそうした思考が不得意だったわけではなく、敢えて書かなかったに過ぎない。ここで述べた『魔の山』との比較は、作品の価値が表面的な小難しさに左右されるものではない事の何よりの証左であろう。


 古今東西、この世には無数の人生が存在する。中には類似したものも登場する。例えば本作の桃子は、どこか『細雪』の四女である妙子を思わせるものがある。そして我々は、類似性を推測するようになる。例えば、自分はかつて下田の婆やを自然に『次郎物語』のお浜と重ねていた。そして、かの作品で一番印象深いのは、第一部ラストでの母お民の姿である。ゆえに自分はお民が本作の龍子に重なる事を期待しながら、すなわち対外的には見栄えが良くとも身内の席ではどこか冷淡な彼女が、子や家族に愛情を向けるようになる結末を期待しながら読んでいたのであった。残念ながら本作の結末では、ある意味では子供たちの現状を招いた最大の原因とも考えられる彼女の自尊心が、いっそう強固に発揮されている。これが人生なのだと、歎息せずにはいられない場面であろう。

 人生とは、何だろうか。少なくとも、生きていれば人生ではある。今も昔も、自分は読みながら本作が終わらない事を願っていた。楡の一族が、何であれ生き続ける事を。その一方で、その生存をそれほど望まない登場人物もいた。例えば佐久間熊五郎などは正直帰ってくるなと思いながら読んでいたものだが、今にしてみれば彼の命もそう無碍にはできない部分が見付かって面白い。もしも熊五郎が出征早々に戦死していたら、その通知が米国に与える影響は『人間の絆』におけるヘイウィードのそれと同等であっただろう。

 果たして、人生に意味などあるものか?本作において徹吉は、病院の焼失と義父の死という状況を受けてただ生活の為の人生を送っている時期に、彼の畢生の大作とも言うべき専門書の著作に向かう事になる。では、それが人生の意味なのだろうか?自身を、あるいは自身の作品を完成させる事が、果たして人生の意味なのだろうか?

 本作では書かれていないが、徹吉のモデルである茂吉がその問いを突き付けられた経験を思い出してみよう。一つは、彼が主治医を務めた芥川龍之介の自殺である。彼自身が処方した睡眠薬によって命を絶った芥川の死は、当時ただ生活の為の毎日を送っていた茂吉に何をもたらしたのか。あるいは更に古く一高時代、同じく一高生だった藤村操の死は、茂吉に何をもたらしたのか。後者については、息子の茂太が『精神科医三代』にて、当時の茂吉が書いた手紙を紹介している。
「分らざるが為に生きて居て何の不都合がある」
「是処に至りては哲学者などは屁の役にも立たず候」
この姿勢は明らかに、息子である北杜夫にも受け継がれている。作者が人生という問いに対して、敢えて作品には書かないと決めた事柄があった。その判断基準はやはり、この茂吉を始めとする一族の体験に依るところが大きいのではないだろうか。


 ここで本題を思い出してみたい。果たして現在の読者にとって、市民とは何であろうか?あるいはこう言っても良い。果たしてこの作品の登場人物たちは、現在の我々の目から見て、平凡な市民と呼べるものなのだろうか?

 確かに本作において、例えば徹吉は院代の勝俣秀吉や妻の龍子を始めとする登場人物たちから、時に無能に近い評価を受ける。そもそもからして、周囲に時代に翻弄されるがままの無力な存在である。しかしながらあの時代において、一高から東京帝国大学の医科に進み留学まで果たし、専門筋から高い評価を受ける大著までものにした医師でもある。そんな彼を、果たして凡庸な市民と呼んで良いものなのか?

 彼が成し遂げた輝かしい側面と、どうしようもなく俗人で多くの限界を持つ側面と。それを彼と比べて遙かに平坦な自分自身の人生と引き比べる時、我々は、先に述べた米国とナフタの比較を援用できる事に気付く。すなわち、凡庸な我々と同様に、徹吉の人生もまた、平凡な市民の人生そのものなのである。


 戦後の我が国では、農地改革や経済成長など幾つもの要因が重なった結果、戦前とは比べものにならないほど多くの市民を生み出す事になった。その大多数は、あるいは楡家の人びとほど恵まれた市民ではないのかもしれない。では、本作『楡家の人びと』は、それらごく限られた恵まれた人々にのみ意味のある作品なのだろうか?

 ここまで拙文を読んで頂いた方には、この答えは既に自明であろう。本作は決して精神科病院を経営する一族のみが独占できる作品でもなければ国会議員の一族だけのものでもなく、社会的に恵まれていると見なされる人々の為だけの物語でもない。もちろんそれら人々の為の物語でもあるのは確かだが、同時に本作は、我々自身の物語なのである。

 ここで吾人は遂に、冒頭で述べた事の他にもう一つ、本作の魅力を付け加え得る事ができる。三島がかつて看破した通り、この作品こそ、我々市民が広く共有できる小説なのである。


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以上、今日はこれにて。

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