教育について、補足

昨日は途中で凄まじい眠気にやる気を根こそぎ奪われて、少し言い足りない部分もあったので、軽く補足でも書いておきます。



■上の世代からの反論

「上がしっかりして欲しい」という意見に対してよく言われるのは、例えばこんな感じでしょうか。
・下の世代の基礎がなっていないから、あるいは教えを請う態度とは思えないから、詳しく話をしてあげたいという気持ちにならない。
・教養(社会に出た後でも専門以外の勉強を続ける、ぐらいの意味で)を磨いても周囲で話の種にならず、仕事の上でも役に立つ事がない。
・教養が深い方々ほど、現在の有識者層に参入するインセンティブが無い。あるいは参加をしても程なく絶望して海外に旅立つ事が多い。

これらは一々その通りなので頭が痛いところですが、根本的な問題として、社会が大卒後の教養レベルを維持できるような空気になっていないのは確かですよね。例えば院卒は勿論大卒でも、自身が専攻した専門分野に関するテレビ番組(民放除く)や雑誌(比較的高級な)の特集を見て憤慨する方々は日常茶飯事ですし。これはつまり、一般向けの平易な解説と内容の深さは矛盾しないはずなのに、一般向け=内容は浅く→専門家が見れば不適当な説明が続々登場…というパターンになりがちで、助言能力に欠ける専門家・理解の足りない作成側・そのまま消費する一般層で三すくみとなって改善しようのない状況が出来上がっているので如何ともし難い現状ですが。。底の深い問題ほど、ある日突然あっさり解決するものでもあるので、それを気長に待つ事にして次の話題へ。



■高等教育の目標

昨日の文中で「見本となる先人+刺激し合える同窓が全て」といった事を書いたのですが、上位構造に言及するのを忘れていたのでそれについて。つまり高等教育の目標ですが、「卒業後も必要を認めた時には独学ができるだけの自発的な意志と、それを実行できる能力を培う事」で必要充分だと個人的には思っています。それさえ身につければ、専門知識ゼロでも卒業させて構わないのではないかとさえ思っていたりして。もちろん実際には全ての専門領域において習得すべき知識が年々増え続けており、それらをマスターするだけで手一杯という事が多いのがまた難しいところですが、それは見なかった事にして…(笑)。

前半の意思を育むのが、昨日書いた先人と同窓ではないかなと思います。学び続ける意思というと何だか大層に聞こえますが、結局は学びの楽しさを体験する事なんですよね。で、その対象は高尚なものに限らず、別にお下劣なものであっても良いと思うわけで。ただ、そうした楽しさを多く体験している他者と接する事でのみ意思を保てるのがおそらく大多数で、その手の外的刺激が無くても意思を継続できる天才には一切の対策は不要ですが、特に隙あらばサボりたい自分のような連中にとっては必須だろうなと。

また、後半の能力=教えるべき内容となりますが、例えば辞書の調べ方やノートのまとめ方などでしょうか。つまり大学受験にしろ各種資格試験にしろ、それらの勉強の秘訣は「過去問をひたすら解く」になるわけですが、それとは違った勉強法を身につける事というか。具体的な到達点としては、勉強をしながら自分で問題を見出す事が出来る程度で良いと思っていますが、案外にこのレベルをクリアできている卒業生って少ない気がするんですよね。。



■おしまい

何となく二夜に亘って書き殴ってみましたが、おそらく書き忘れているテーマも沢山あり、話は尽きないですね。

結局、教育についてはそれを受ける個々人の差が大きく影響するだけに、一様な方法を見出しにくい傾向があります。ゆえに個人的には全国一律の教育よりは、地域ごと・住民ごとに各々の状況に応じて立案・選択できる方が望ましい気がするのですが、地域にしろ家庭にしろそれを引き受けられるだけの余裕がなかなか持てないのが残念なところで。。

かつての寺子屋教育や藩校などはどうやっていたのだろう?なんて思ったりもしますが、まぁ広い範囲の話をしても八方塞がりに陥りやすい上に世の中を変えられるわけでもないのでさて置いて。とりあえずは、自身と身の回りの教育環境を考えて、何かの勘違いからそれに良い風に影響される方々が出て来るのであれば、名もなき一個人としては上出来だろうなぁ…といった結論でしょうかね。

いまいち締まりませんが、そんな感じで今日はこれにて。

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