文章の質とコミュニケーションについての独り言

何となく考えていた事シリーズその二。文章の質とコミュニケーションについて。


テーマが重いので色々と考え出せば大作になりそうですが、考えていたのは、文章の質とコミュニケーションの深さとは相関しないなぁ、という事について。これは文章を通したコミュニケーション限定の話ですが、携帯メールや電子メールにSNSにTwitterと、最近では会話以上に文章によるコミュニケーションの機会が激増している今日この頃。一度ゆっくり考えてみる価値はあるのではないかと思います。

さて、文章の質というのは何かを限定しないと話が進まないわけですが。ここでは、客観的に見て文意が理解し易い事と考えておきます。その場合、極端な事を言うと、具体的なコミュニケーション相手との間では簡単に通じる言葉や論理展開を多用する事は、文章の質という点では今一歩という事になりかねないわけです。つまり、他の人を相手にした場合には応用が効かず、別の表現を余儀なくされるわけで。


仲間内だけで閉じた環境では、コミュニケーションはさほど難しいものではありません。知識や経験はもちろん、日常的な付き合いを共有している事の意味は大きく、コミュニケーションのツールたる言葉以外にも、やり取りを媒介できる要素がたくさんあります。

一方で、文章のみによるコミュニケーションの場に曝された時には、普段は意識する事もなく通じていた表現で誤解が生じるなど、急激に難易度が高い状況に置かれてしまいます。

或いは逆に、客観的に見て妥当な表現を重視した場合。仲間内でのやり取りにおいては無駄なものが多く、まどろっこしく感じる場面が多くなります。これは、積み重なる事で仲間内の関係性にも悪影響を及ぼしかねないだけに、さっさと話が通じるのであれば、質の低い表現であってもそれの方が良いと考えられます。


で、ここまで書いて来て、「文章の質」ではなく「表現の質」にすれば会話でのやり取りも網羅できて良かったかな?とも思ったのですが。。例えば、専門家が一般の人々に向けて解説をする際に、しばしば見受けられる問題なども扱えて良かったかなと思いつつ。書き直しが面倒なのでこのまま行きますが(苦笑)。

コミュニケーションの場面によって、求められるべき表現の質が違って来るのは、考えてみれば当たり前で。今までの質=qualityでしたが、ここではkindやcharacterに近い「性質」といった意味合いを強く意識すると、何だかすっきりまとまる気がしてきたので、この辺りで締めとしておきます。


以上、今日はこれにて。


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