真夜中の考察あるいは妄想

今月はノルマの10記事/月が非常に厳しいので、またもや適当な戯言のまとめでお茶を濁すの巻。無理かどうかの計算は後回しで、とにかく頑張れるだけ頑張りますよという事で。

今回は、原典がほとんど頭に入っていないにも関わらず、偉そうに老荘にアプローチしております。


***


イデオロギー臭を大衆に感じさせない事が、イデオローグが成功する秘訣なのだとしたら、鼓腹撃壌というのはどう解釈すべきなんだろうか?とふと思ったり。あれは帝堯=理想的という前提があるから良い話になるんだけど、仮にあの老人が脂肪肝のガチョウだとしても、同じ事を言うのではないかな?とか。
2011年1月25日 3:15:24:JST

現代の政治家に対する倫理意識の厳しさとか、色々と発展できそうなネタなんだけど、さすがに眠いので放言だけしておきました。ではお休みなさい。
2011年1月25日 3:16:32:JST

一昨日の呟きの続きを書きたいけど、考えがまとまらない。湯川さんが荘子を好きと言っておられた事なんかに繋げたいんだけど…。ふと思ったのは、老荘思想って戦後のどこかのタイミングで消えちゃった気がする。そして、それを埋める形でリバタリアンが我が国で微妙に増えつつあるのかも?とか。
2011年1月27日 3:11:57:JST

昨日の続き。鼓腹撃壌という理想を残す選択をすると、為政者が邪な意図(イデオロギー)を表に出さず上手く支配を完成させる危険性を許す事にもなる。古代の、支配領域も人口も規模が小さい状況ではリスクとして大きなものではないけれども、現在のnation/stateでは大問題になる。
2011年1月28日 3:19:59:JST

国家としての規模が徐々に大きくなっていく中で、儒家に対するカウンター的な目的で老荘思想が確立していったと仮定すると。或いは、老荘思想の一部分としてのそうした傾向に着目すると。先の大戦後に儒教教育が廃れて行くのと軌を一にして、我が国で老荘が下火になったのは自然の成り行きかもしれない
2011年1月28日 3:26:50:JST

儒家と老荘とは我が国でもかなり混在して理解されているけれど、「道」という考え方の向こう側に意識していた事が鼓腹撃壌の裏バージョンなのだとしたら、それもやはり自然な流れだったのかも。乱暴に言うと、儒家は為政者の資質を問い、老荘は為政者の姿勢を問うた…のか?後者は為政者の解釈かな。
2011年1月28日 3:33:13:JST

いずれにせよ、儒家サイドからと老荘サイドからと、為政者≒支配者へのチェック機能になりうる視点が戦後の教育からは徐々に抜け落ちていって、結局は1995年のような嫌な形で明るみに出た。が、世紀末ですぐさま忘れ去られ、今なお問題点として存在する。あの熱狂的な政権交代も、構図は同じかも。
2011年1月28日 3:41:10:JST

我が国を立て直す段階でリバタリアン的な思考は重要だとは思うんだけど、それを我が国で上手く活かすには、そのままの形ではやっぱり厳しい。となった時に、リバタリアンというか老荘だよ、と言って、説得力があるのだろうか?無為無策のまま過ごすという意味で誤解されそうな気もするし、難しいな。
2011年1月28日 3:45:35:JST

ま、いずれにせよ、生半可以下の知識で無駄話をしているよりは、まずは四書を読んで、その上で荘子を読んで、それからですね。ちょっと意識的にまとまった時間を作る事を考えよう。ではお休みなさい。
2011年1月28日 3:50:26:JST


***


以上、ひとまずこれにて。
関連記事

テーマ : ひとりごと - ジャンル : 日記

コメント
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する