人間の建設

最近はどうも少しスランプなのか、何か書こうかとPCと向き合っても最初の書き出しがしっくり来ないまま、用意したお茶とお菓子だけが延々と消費され続けて体重計が怖い今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?

そんなわけで、今日は無理矢理にでも書いてみようという事で、本の紹介でもしてみます。何を書こうかまるでまとまっておりませんが、まぁ何とかなるでしょう。という事で、岡潔・小林秀雄「人間の建設」(新潮文庫)について。なお、お二人ともに亡くなられて久しい事もあり、今日は以下全て敬称略で書きます。


本書は、昭和40年(1965年)に行われた二人の対談を文庫化したものです。「新潮」に掲載され、単行本化もされましたが、長らく絶版のままでした。小林秀雄の全集はたびたび刊行されていたので、それで読めないことはなかったのですが、誰でも容易に手にする事ができる状態になったのは嬉しいですね。

実は、文庫が発売された時は見逃していたのですが、友人に教えてもらって入手したものです。地味に既に4刷という事で、出版社の予想以上に読まれているのでしょう。本編は150ページ程度で、字も大きいのですぐに読めるという要素も影響しているのかもしれません。


対談本の楽しみとは、やはり微妙なニュアンスの違い、空気の違いを味わう事ではないかと思います。逆に言えばそれが難しいところで、一方の発言にもう片方が相槌を打つ場合でも、それが「あえて反論しない」場合もあれば「完全に同意」という場合もあるわけで。また、内容が比較的分かり易いものになる反面、話が色んなところに飛んで意図を掴みづらいという傾向もあります。

ゆえに、事前にお二人の著作を一冊ずつでも読了していれば、予備知識がない状態に比べて分かり易い部分はあると思います。とはいえ、本書を先にして、それから各々の著作を読み、もう一度この作品に戻って来るという順番でも問題はないわけですし、それをしても得るものは充分にあると言えるだけの豊穣な内容になっていると思います。むしろ、未だに解決されないままの、そして今こそ問題にすべきテーマが多いと言うべきかも知れません。


さて、先頃ピカソの作品が1億ドル超で落札されたというニュースがありましたが、本書の冒頭でピカソの絵が話題になっています。そこで出て来る無明と小我、そして個性といった辺りが、作品全体のキーになっています。

芸術作品の話、各々の専門である数学と批評の話、それから世界の知力が低下している問題を始め教育の話、更には西洋と日本の話に至るまで、その説の根本には、いかにして「足が大地をはなれ」る事なく個性を発揮するかという視点があります。つまり、毀誉褒貶が激しい「個性」という単語が、本作ではどのように定義されているかを読み取ることが大切ではないかと思いました。


少し気になるのは、岡潔は本書で知情意に関して、「知とか意とかがどう主張したって(略)情が同調しなかったら」(p.39)という趣旨の事を繰り返しておられますが、情の重要性は勿論として、一方で知を疎かにしているわけではありません。

つまり、「大学院のマスター・コースまでの知識がないと、新しい論文は読めない」(p.29)と言っていて、その後の話の流れで準備に6+3+3+4+2=18年もかかる現状そのものを問題視しておられますが、知の必要性を軽視しているわけではありません。

この辺りは一番誤読されやすいというか、本書に限らず他の作品でも、同じようなパターンで誤った理解をされやすい場合が多いので、あえて書き記してみました。


本書は何というか、読書会のような形で何人かで集まって好き勝手に感想を言い合ったら楽しそうな作品ですが、ここで自分が思った事をだらだらと書いていくのも難しいので、もう一点だけ。小林秀雄と芸術について。

もはや最近では小林秀雄の作品=文字通り「教祖の文学」といった感じで、無批判での引用が多い気がするのですが、やっぱり変な人だなぁと思います。本書では例えばp.78辺り、ゴッホの「複製のほうが作品として出来がいい」と言い切っておられるのですが、空気を読まない岡潔も、それについてはスルーして、微妙に違う話題で返事をしています。

ただ、ここで「小林秀雄は芸術が分からない」と批判できるかというと、これが難しいんですね。彼の話の流れには多くの矛盾があって、しかしながらその話の中での言葉の定義や使い方を厳密に考えると、上手い事フォローできていたりするわけで。小林秀雄はもともとは脇の甘いところが多々あって、それが個人的には魅力だと思っていたりするのですが。乱暴に言ってしまえば、自身のその脇の甘い部分について考え続けた方なのだろうなと思ったりします。

つまり厳密に言うと、やはり小林秀雄には芸術は分からなかったのだろうと思います。ただそれは、例えば青山次郎クラスの人であれば言える事で。あるいは、白洲正子でも言えるとは思います。本書の中で岡潔が小林秀雄を的確に表現しているなぁと思った箇所があるのですが、「具体的に言うと、おわかりになる」(p.44)と同じ事を、青山次郎らも思っていたのではないかなと。

話ついでに、岡潔への評価として本書の中で一番妥当な表現は、「確信したことばかり書いていらっしゃいますね」(p.110)でしょうか。その点ではこのお二人は似たもの同士であって、とはいえ岡潔の方が狂気の色はやはり濃いですね。家族や同業の数学者や、周りの色んな方の苦労あっての業績であって、その辺りを含めて人間性をどう評価するべきかというのは難しいところですが。。先日亡くなられた井上ひさしもそうですが、紙一重ゆえにという傾向は多々あるだけに、色々な事がやかましく言われる昨今では、天才がその能力を十全に発揮するのは難しいのかもしれません。

話を戻して、ゴッホの作品については、同時性と継続性という観点からの批判ができるとは思います。つまり、作品をどの程度のスパンで見ているかという事で、長い年月を鑑賞に耐えるだけの作品を作るべきか、それとも初披露の場面での鑑賞のみを意識した作品にすべきか?という話。ただ、それを指摘されても小林秀雄は自説を変えないでしょうし、つまり彼の中でそれは重要性を伴って響かないのではないかと思ったりします。

そうした思考実験もできて、楽しく読めた作品でした、と、このままでは際限なくダラダラと書き続けそうなので、無理矢理まとめてみました。


本当は彼らの他の作品を絡めた話も書きたかったのですが、長くなったので却下という事で。あと、全く別の趣の対談作品との比較などもしたかったのですが、それも却下という事で。改めて書く気も余り起きないので、ちょっとだけそれらに触れて終わります。という事で↓。



■関連作を探そう!

・岡潔「春宵十話」(光文社文庫)
・小林秀雄「考えるヒント」(文春文庫)

ベタですが、やはりこれらが両者の入門書としては最適かと。前者は毎日新聞社のイメージが強いのですが、今は光文社文庫になっているのですね。後者は、1と2がそれぞれ2004年と2007年に文字が大きくなって新装再発されました。なので今年は3が出ないかなぁと密かに期待しております。


・埴谷雄高・北杜夫「さびしい文学者の時代」(中公文庫)
・埴谷雄高・北杜夫「難解人間vs躁鬱人間」(中公文庫)

比較しようと密かに企んでいたのはこちら。役に立つ度合いという点では完敗だと思いますが、役に立つから良いというものではない、という事で。ちなみに後者は、家に女の子が遊びに来るというので部屋を片付けて本は山積みのままで良いかと思っていたら幾つかの山の中から本書が一番上にあった山を選んでページを開けてみたら「いんぽの一番の原因は飲み過ぎ」と埴谷雄高が語っているのが目に飛び込んで来たらしくて反応に困った、という事態を招きかねないのでご注意下さいませ。


以上、今日はこれにて。





*少しだけ追記(5/14深夜)。

本文中には何箇所か、ろくに説明もなく過激な断定表現をしている部分があります。おそらく、継続的に私の文章を読んで頂いている方には問題ないかと思いますが、それらは限定的な表現であって、あくまでも考察の途中に出て来る一時的なものであり、結論ではありません。特に、文字通りに受け取られると否定的に捉えられかねない箇所について、配慮が少々足りなかったなと反省しております。

具体的には、例えば最後に埴谷雄高と北杜夫の対談本に言及した際に、「役に立つ度合いという点では完敗」と書いています。それは作品の雰囲気の違い:ソリッドな質感を伴った岡・小林対談と、ともすればグダグダ感が漂う埴谷・北対談の違いを念頭に置いたもので、正確には「役に立ちやすそうな印象...」などと書くべきだったのでしょう。両作品の比較は省略しましたが、結論としては「両作品とも、結局は同じような事を言っている」に繋がる予定でした。

以上、蛇足ながら補足という事で。


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コメント

誤読するの?

誤読するの?

No title

まぁ、誤読とかは避けられないものではありますので、それを怖れ過ぎても仕方がないのですけどね。
上で挙げた誤読のパターンと全く同じですが、「誤読するぐらいなら読まない」という変な論理がまかり通っている気がする今日この頃なのです。。。
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