桜の文学史

桜の季節が終わりを迎え、いよいよGWですが、今日は最近読んだ本の中から、桜にちなんだ作品の感想を簡単に書いてみます。

というのも、昨日は満月だったわけですが、夜道を歩きながら視界に入った月がほのかにかすむ様子を見ながら、「朧月、大河をのぼる、御船かな」という蕪村の句や、「照りもせず、曇りもはてぬ、春の夜の、朧月夜に、しくものぞなき」という大江千里の歌を思い出していました。

後者は源氏物語に出てくる「朧月夜に似るものぞなき」の本歌ですが、花の宴も、もう終わりだなぁと思ったもので(この歌は8帖「花宴」に出て来るのです)、似合いもしない風流を気取って書いてみる事にします(笑)。



■小川和佑「桜の文学史」(文春新書)

半年ほど前だったか、梶井基次郎の有名な一節「桜の樹の下には屍体が埋まってゐる!」であったり、坂口安吾の「桜の樹の下には鬼が棲む」といった桜観は、いつ頃から生じたものなのか?と疑問に思っていたところ、本書を紹介して頂きました。で、購入した後わざわざ春まで寝かせて、今月になって読んだものです。

ちなみに、それに対する著者の解答はp.195辺り。ラフカディオ・ハーン「怪談」や樋口一葉「闇桜」の中に、江戸の俳諧からは感じられなかった死の影を認めて疑問を呈する事から始まります。結論としては江戸の歌舞伎、特に「仮名手本忠臣蔵」における塩冶判官(浅野内匠頭)の切腹の場面で演出される悲愴感に、その源流を求めています。忠臣蔵そのものが太平の世において異彩を放つ一大事件であった事からも、これは納得できるものでした。


さて改めて。本書は記紀の時代から現代に至るまでの文学作品を通して、年代順に桜に対する意識の変遷をまとめ上げたものです。作品内には引用が豊富で、かつ主要な作品はほぼ網羅されているので、通読ではなくても楽しめるのではないかと思います。

少し残念なのは時おり読みにくい文章がある事で、「○○は」で始まった文章の述語にかかるのは、どう考えても文中には出て来ない「××」ではないかと思う場合が時折ありました。もしかすると、口述筆記という形だったのかもしれません。まぁ、著者の思考の流れを読めるのも面白い事ではありますし、特に目くじらを立てるものでもないでしょう。ただ、普段あまり読み慣れていない方だと、少し難渋するかもしれませんのでお気を付け下さい。


作品を通した著者の主張としては、「戦前の一時期において歪められた桜への意識を是正したい」という一点に尽きます。いくつか箇条書きで挙げると、

・ソメイヨシノは幕末に誕生した新しい品種で、桜から感じる何かしら不気味なイメージは、他の山桜などと比べ極端に生命力に欠けるこの品種によるものが大きい。つまり、江戸以前に詠まれた桜は、ソメイヨシノではない。

・散る花であるからこそ生前の美しさがあるという考え方、散る事が終わりではなく翌年の開花に繋がるものだという考え方が、かつては主流だった。

・しかし、散る花を惜しみ、それが死と結びつき、更には明治以降の偏狭なナショナリズムと結びつく事で、国華としての桜観がソメイヨシノとともに全国に広まった。

・従来の桜観を歪めたその発端を、著者は、「敷島の、大和心を、ひと問はば、朝日に匂う、山桜花」で有名な本居宣長だとして、宣長の詩的感性に強い疑問を呈している。

個人的には、最初の3つはまぁ賛成。最後の本居宣長については、彼の感性が西行などと遠く隔たったところにあったのは同意ですが、それがそのまま明治以降の桜観に直結したか?というと少し疑問だったりします。小林秀雄が言うように宣長の(死後の)弟子である平田篤胤、更には、その教えを受けた幕末の志士たちに原因があるのではないかと、個人的には思います。

そういえば、話は少し逸れますが、かつて今東光さんが明治の神仏分離令について、それを決定した明治新政府のお歴々をこき下ろしておられました(苦笑)。あんまり言うと志士好きな方々から文句が来るので自重しますが、まぁ同じような感じと言うか、そういう事だったのではないかなぁという辺りでお茶を濁しておきましょう(笑)。


で、それなりに予想はしていましたが、やはり当初考えていた以上に長くなってしまったので、ひとまずこれにて。もう一冊だけ書いて寝る事にします。


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