阪神・赤星選手の引退

昨夜の12時少し前、フジテレビ系「すぽると」を見るように言われてテレビをつけて、阪神タイガース赤星選手の引退を知りました。実は夕方からニュースでばんばんやっていたとの事ですが、昨日はそれから、ぼんやりと寂しい気分を引きずりつつ過ごしておりました。

こうして書き始めてもなお、何を書けばいいのか分からない部分が残りますが、ともかく思いつくままに書き残しておきます。



■成績についての整理

新人から5年連続盗塁王、そして3年連続60盗塁は他に元阪急の福本選手しかなしえていない数字。通算381盗塁は史上9位タイの記録。吉田義男さんの盗塁数を抜いた時のニュースが記憶に残っています。

通算打率.2947は、4000打数以上の選手としては、33歳での引退と聞いて連想した掛布さんの.2919を上回り、藤村富美男さんの.2999には及ばないものの堂々たる数字です。ちなみに2000打数以上だと、通算で.3365というカーネル人形似のおじさんが阪神の選手としてはトップ(その上には、海を渡った天才打者が.3531で控えるのみ)。また、田淵さんは打率はさほどでもないです(ただし、本塁打率=本塁打数/打数は、王さんとカブレラ選手に次ぐ歴代3位)。



■プレイのイメージ

赤星選手といえばやはり走塁ですが、持ち前の俊足をいかに活かすかという技術面での追求が、あの盗塁の数字に繋がったのでしょう。また、数字に残らない部分として、状況に応じて一つでも次の塁を目指そうとする姿勢が素晴らしく、それは盗塁を試みる際の相手バッテリーとの駆け引きの場面でも顕著に確認できました。

打者としては、通算で本塁打が3本という腕力の無さはたびたび指摘されましたが、コンスタントに三割を維持して、かつ大事な場面では四死球を選んで塁に出る事も多く、00年代の阪神の攻撃には「塁に出た赤星選手を帰す」という強固な型がありました。

外野手としては、守備範囲が非常に広い上にエラーが少なく、果敢なダイビングと的確な送球で、広い甲子園で投げる投手達を背中から支えました。

肉体的には他のプロ野球選手と比べて恵まれているとはいえない体でしたが、それを常に頭で補い、自分の長所を充分に理解して、自分がやれる範囲で最高のプレイを追及する真面目な姿勢が印象的でした。しかし、選手としての責任感の強さは度重なる怪我に繋がり、太く短い9年間の選手生活でした。



■以下、思いつくままに

2000年のシーズン終了後に大リーグに移籍する事になった新庄選手の穴を「自分が埋める」と宣言した入団会見。新人として迎えた2001年は、キャンプ時こそ野村監督命名「F1セブン」の一人としての扱いだったものの、特にシーズン後半は上坂・赤星・濱中の1~3番が固定されて将来が期待できる布陣でした。同じ時期には井川投手がローテーションの一角として起用され、負けが先行したものの防御率2点台の数字を残し、攻守ともに上向きの兆候が見られた年でした。

翌年は星野監督の就任により1番を任されたものの怪我に苦しみ、当初は2番だった今岡選手が好調を維持したので、復帰後は入れ替わりに2番として起用されました。今岡・赤星・濱中の並びは、個人的に非常に期待を持って応援していた記憶があります。また、前述の井川投手は開幕投手を務め、この年は白星先行で防御率も2点台前半に抑えたものの、復活した桑田投手に阻まれタイトル獲得はなりませんでした。



■そして2003年

前年のオフに獲得した金本選手を3番に据え、4番に濱中選手を置いた(怪我の後は檜山選手らを対戦相手に応じて起用した)ものの、1,2番の並びは変更なく迎えたシーズン。考えてみると、この18年ぶりの優勝を飾った年に、赤星選手の選手生活の多くが凝縮されていた、のかもしれません。

この年の開幕前、外野のレギュラー争いは金本・檜山・濱中に次ぐ4番手だと盛んに言われました。特に打者としての能力を問題にする論調が主流でしたが、オープン戦では弱点と指摘された長打力をアピールするなどして結果を残し、レギュラーを勝ち取りました。

少し話が逸れますが、実は赤星選手のレギュラーは確定していて、しかし更なる発奮を促すために厳しい事を言っていたと、後に星野さんは語っています。この辺りが、自分があまり星野さんを好きになれない部分なのですが、選手の頑張りを監督の手柄に移し変えるかのような態度と。それから選手にハッパをかけるというやり方は手法としてはアリとしても、マスコミを通す必要はあるのか?という点に疑問を感じますし、その点に限って言えば野村さんとよく似ているなぁと思います。亡くなられた島野さんが上手くフォローをしていたから結果として成り立っていた、という切ない事実は、後に北京での惨敗で実証される事になります。。

話を戻して、この年に加入した金本選手の影響は大きく、赤星選手が塁に出た時には打者として不利なカウントになるリスクを冒してでも盗塁を手助けして、結果として60の大台を超える盗塁数を記録しました。守備でも一年間エラーなしという数字を残しています。


開幕から独走状態を維持したまま、マジック2で迎えた9月15日。この年から施行された休日法改正によって敬老の日が9月第3月曜日に移りましたが、2003年はちょうど15日が第3月曜日で祝日となり、デーゲームが行われました。9回サヨナラの場面で登場した赤星選手は、開幕前に非力を問題視された故なのか否か、巡り合わせとは不思議なものですが、見事に外野の頭を越してランナーを帰し、この試合を勝利に導きます。そして約2時間後、他球場の結果により、このサヨナラヒットは結果的に18年ぶりの優勝を決めた一打になりました。


この年の日本シリーズの第一戦。果敢なダイビングキャッチを試みて負傷した赤星選手は以後の試合で精彩を欠き、チームも、当時評論家だった落合さんが事前に予想したとおり、互いの本拠地で譲らなかった結果、涙を呑みました。

結局この年は、選手としての飛躍、プレイスタイルの確立、そして、後の引退に繋がる怪我の予感を感じさせるプレイ、それら全てが見受けられたシーズンでした。。。



■まとめ

2004年以降は、新しく就任した岡田監督が金本・今岡の4,5番構想を持っていたために主として1番を任され、全イニング出場などチームに大きく貢献しましたが、常に潜在的に確率として存在する怪我との戦いの日々でもありました。しかし、それを怖れることなく、常に全力でのプレイを見せ続けてくれました。

引退の判断はもちろん余人がどうこう言える事ではなく、ご本人の決断を支持します。が、チームにとって大きな痛手である事はもちろん、あのプレイがもう見られないのは本当に寂しい事です。


考えてみると、ラッキーゾーンが撤廃されて以降、広い甲子園で堅実な守備と走塁を重視した野球が求められていたにもかかわらず、それを体現できるような選手がなかなか出て来ない時期が長く続きました。

赤星選手の価値は打率や出塁率や盗塁などの数字面でも窺い知る事はできますが、何よりも。本拠地である甲子園が長年求めていた選手像そのものである事が一番大きかったのではないかと、ここまで書いて思い至ったので、ここで締めとさせて頂きます。

阪神タイガースの歴史において一時代を築いた中心選手にして、お金を払って見に行く価値のある「プロの技」を持った名選手の引退に、心から一言、「お疲れ様でした」という言葉を最後に呟いて、今日はこれにて。


以上、読んで頂いてありがとうございました。


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テーマ : 阪神タイガース - ジャンル : スポーツ

コメント

BKOが起用する

BKOが起用するの?

No title

起用できるなら起用したいのは山々ですが、今後の人生には代えられないですから難しいところです。
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