中公新書2000

今日は、少し前に予告していた本屋さんに関するお堅いお話について書いてみます。考えている事を全部書いたら大作になりそうですが、どうなる事やら・・・??



・新書の傾向

さて。ここ数年、新書は極端な二極化の傾向にあって、内容が薄く数十分で読めてしまえるものと、じっくりと三時間ぐらい掛けて取り組むに値するものとの差が顕著でした。その両者をひっくるめて新書ブームがあり、そしてブームは去ったわけですが。実は新書バブルの当時から、新規参入も含め発行数が激増する反面、過去の名作と呼べるような作品までが廃刊の危機に陥る状況になっていました(これは新書に限らず、文庫などでも同じ現象が見受けられました)。

だからというわけでもないのですが、4月に「給付金で何を買おう?」というネタ記事を書いた時、ここで取り上げた三冊の本には共通点があって、「入手困難になりつつあるけれども、今ならまだ何とか手に入る」という状況にあるものを選びました。中でも、高坂正堯「国際政治」(中公新書)が梅田の紀伊国屋書店で在庫なしという状況にはショックを受け、ついでに、在庫を確認した氏の著作を(それは新潮選書で、著者の五十音順に並んでいたのですが)「た」行にて発見した時には、「亡くなられて10年以上も経つし...」と自らを励ましつつも、思わず「悲しみの惨事~」という替え歌を作ろうかという精神状態に陥ったのでありました。と、そんなネタはともかく。



・amazonにて

こうした「廃刊が早まっている」という傾向を自分が認識したのは2005~6年でした。amazonにて発売後3年ほどの作品が入手できないという経験を何度かした後のことです。最初は、痒いところに手が届くようだったamazonの商品在庫は元バイヤーさんらの貢献が大きかったのかなぁと思い。次には、中古販売を手掛けた影響かと思い。そして、これは出版社の問題というか、相当に余裕のない状態なのだなと悟ったわけですが。

確かに、古本屋さんがネットに直結されたお陰で、欲しい本を購入できるという選択肢は維持されています。しかし、それが新刊で入手できない事は、新刊と中古の扱いの差や著者に印税が入らないなどの理由以前に、どうにも変な状態だと思えてしまいます。そして、自分がかつて勧められ印象に残っている作品が読み継がれないという悲しみもあり、思わず「悲しみの汝~」という替え歌を・・・ってのはもういいですね。ともかく、そうした流れがあったので余計に、先の高坂氏の作品については思うところが多かったのでありました。

ついでに言うと、口コミが集まってせっかく復刊した作品が増刷されないままに1~2年で姿を消すという傾向も、ここ2~3年で目立って来たように思います。これは、復刊書の初版を吸収できるだけの数の読者層が現実に存在するというプラスの側面も確かにありますが、興味を持った人の機会損失というマイナス面を考えると、何とかなってくれないものかという気持ちになりますね。



・中公新書2000フェア

ところが、二ヶ月ほど前のある日のこと。件の紀伊国屋書店に出向いてみると、とある一角にあった作品が目に入りました。それは林健太郎「ワイマル共和国」で、思わず「懐かし~」と呟いてしまったのですが。そこでは中公新書が2000冊を突破した事を記念して、増刷された過去の名作の数々が紹介されていたのでした。そして、村瀬興雄「アドルフ・ヒトラー」、宮崎市定「科挙」、高橋正衛「二・ニ六事件」、入江昭「日本の外交」などと共に並べられていた上記「国際政治」も、再び容易に入手可能な状況に戻って今に至ります。つまりは自分の早とちりだったわけですが、半ば諦めていただけに嬉しい体験でありました。

しかしながら、こうした出版社の事情で(増刷や新装再発、改訂や新訳などを控えて)一時的に入手困難な例はやはり少数派で。現実には、自分がリアルタイムで体験してそれなりに読まれていたはずの作品ですら、検索をしてみると在庫なしという状況にあります。具体的には、70年代以前の作品はかなりの名作以外は難しいですし、80年代・90年代の作品でも相当数が厳しい状況で、今世紀の作品ですら発売5年を経たら難しいと言えるかもしれません。こうした悲観的な状況による暗示効果が先の早とちりを生んだわけですが、思わず「悲しみの暗示~」という替え歌を・・・ってのはいい加減しつこいですね。閑話休題。



・猪木武徳「戦後世界経済史」

さて、このまま出版業界の現状について話を進めても良いのですが、暗い話になりがちであまり書く意欲をそそられないので、以下では栄えある中公新書2000冊目を飾った本作品について、真面目に書くことにします。

まずは本書を読み通して辿り着いた376ページ、「ときおり読書を楽しむ九十四歳の父に本書を贈りたい」という結びに感慨深いものを覚えました。父上は言わずと知れた猪木正道氏ですが、読書をされるほどにご健勝なのは嬉しい限りです。正道氏が「遺言のつもりで」書かれた名著「軍国日本の興亡」が1995年、1232冊目の中公新書でした。そして、左右いずれにも偏らないバランスに優れた学者であった父親の血を見事に受け継いでいるなぁと思いながら本書を読んでいただけに、そこで感慨を催したのでしょう。


説得力のある論を書くには、大まかに二つの方法があります。一つは正確に根拠を示し考察を述べる事で、この方法が読者にとって良いところは、著者の考察が優れたものでなくても、根拠の提示が妥当であれば有意義な読書ができる事です。反面、どうしても量が多くなり、読者の読解力に多くを依存する事になります。もう一つは信用を培う事で、判断を下すに足るだけの知識を有しかつ下された判断がバランスに優れた妥当なものであると示し続ける事によって、根拠や考察のプロセスを省略できる雰囲気が生まれます。著者は本作で主に後者の方法を採用しているのですが、それを担保するのが父譲りのバランスの良さなのだろうと。

そして、そうした姿勢で極力ページ数を抑えつつ、著者の武徳氏は戦後の世界経済の概略を一冊の新書にまとめるという無謀とも思える試みに成功しています。少なくとも自分は、本書における著者の判断の大部分は現時点で妥当なものだという印象を持ちましたし(専門知識が圧倒的に不足しているので、あくまでも「印象」という話ですが)、特定の時期あるいは地域における経済を知る必要に迫られた時には、本書の記述を下敷きにその上に更なる情報を積み上げて行けば良いという手応えのようなものを本書から得たように思います。もっとも、正道氏の年代の方からすれば、「幾つになっても夢見がちなところは変わらないな」と(微笑まじりの)苦笑いをされるかもしれない部分もありましたが。。



・トクヴィルについて

武徳氏は最終章「むすびにかえて」で、トクヴィルの考察に重要な役割を与えています。

平等化(特に機会の平等)が進むと、ある時点で、「自由」が侵蝕され始める、という平等化の深刻な弊害をどう捉えればよいのか。(p.368)



実は自分も偶然にというか、ここ二ヶ月ほどだらだらと松本礼二訳「アメリカのデモクラシー」(岩波文庫)を読んでいたのですが、それはこの辺り↓の記述を確認したかった事が切っ掛けでした。トクヴィルは最近また流行の兆しを見せているのだそうで、それはこの辺り↓↓の記述を昨年の経済危機に絡めて考察の手がかりにしているからかも?ってのは少し穿ち過ぎかもしれませんが、他人事としてではなく、どうせ読むなら読み込んで欲しいものであります。と、なかなか読み終えられない自分が言うのもなんですが(苦笑)。


民衆の知識をある一定の水準以上に引き上げることは、いずれにせよ不可能である。人知を分かりやすくし、教育方法を改善し、学問を安価に学べるようにしたところで無駄である。時間をかけずに学問を修め、知性を磨くというわけには決していかない。
つまり働かずに生きていける余裕がどれだけあるか、この点が民衆の知的進歩の超えがたい限界を成しているのである。(第一巻(下)p.53より)

アメリカの立法者は人間の誠実性にはあまり信をおかない。だが人間は賢明であるとつねにみなす。だから法の執行にあたって、もっとも頼りにするのは人の個人的利害である。(第一巻(上)p.126より)




・堂目卓生「アダム・スミス」との比較

既に名著の誉れ高い堂目氏のこの著作は1936冊目の中公新書でした。アダム・スミスについての世間の誤解を改めるという目的を持った本作は、彼の「国富論」と「道徳感情論」を丁寧に読み解く事を通して、特に後者の意義に迫る事で、その目的を達していたように思いました。

読者としても、あまりにも有名とはいえ今さら原典にあたるには厳しいアダム・スミスの著作に、新書を媒介にして(比較的読みやすいにもかかわらず、おそらくは新書で可能なギリギリの深みにまで)迫る事ができる本書は有意義な作品になるはずで、その辺りが高評価を得た原因なのではないかと思っています。個人的には特に、アダム・スミスの哲学との関わり、あるいは逆に、哲学の流れの中で彼がどのような位置に存在するかという辺りが明らかにされる事で見えてくるものに、興味深い印象を持ちました。

また、堂目氏は本書を「二都物語」の引用で始め、「大いなる遺産」という言葉でもって終わらせていたのですが、その引用のセンスには好感を覚えました。そして、ディケンズとトクヴィルという同時代人を作品の重要な部分に登場させている事、心を平静に保つ強さやエートスに言及して締め括るという「人間」重視の姿勢は猪木氏と堂目氏に共通するところで、考えさせられるものがありました。



・考察

武徳氏と堂目氏の著書を読了した方は、あるいは同じ様な物足りなさを覚えたかもしれません。つまり、「それを現在において現実にどう応用するのか?」という点についてですが、それについて簡単に考えてみましょう。

両氏がそれを書かなかった理由は幾つか思いつきます。まず一つ目は、作品の内容を理解できているか分からない相手に語れるものではないという学者としての誠実な姿勢ゆえ。二つ目は、その考察には作品のバックグラウンドとなる知識も必要で、つまり「アダム・スミス」だと当時の時代背景や知識人の思考の傾向など、「戦後世界経済史」であれば戦前に遡っての世界史的な流れと個別の地域における近現代史などを、どの程度修めているか分からない相手に対する同様の姿勢ゆえ。三つ目は、そもそも各人が考察すべき問題であるゆえ。四つ目は、専門家たる両氏においても簡単に答えが出ない問題ゆえ。・・・などでしょうか。

しかしながら、これは杞憂かもしれませんが、アダム・スミスに対する市場原理主義的な誤解が解けた先には、逆方向の誤解に繋がるのではないかと思う部分がありました。あくまでも可能性という話ですが、とはいえそれが示唆する方向はあまり望ましいとは思えないだけに、やはり堂目氏自らの「この先」の考察を拝見したいところです。

一方の武徳氏の作品では、更に一歩踏み込んで教育に言及して警鐘という形で結んでいるだけに、どのような教育をなすべきか?そして、先に引用したトクヴィルの限界とどう折り合いを付けるか?といった辺りの作者の考察が気になります。とはいえ、いずれも不満といったものではなくて、今後の両氏への期待という感じで受け取って頂けると幸いであります。



・まとめ

冒頭で、軽いものと重いものという新書の二極化の傾向について書きました。前者はすぐに読めるが故か、読んで一週間もすれば内容があやふやになってしまいます。そして後者は、内容が難しいが故か、読んで七日も経てば内容がおぼろげになってしまいます。この悲しむべき状況を前に、思わず「われ泣きぬれて...」などと吟じたくなりますが(替え歌の前振りか?と騙された方がおられますように)、せめて読み直しの必要を感じた時に少しでも役に立つようにと、こうして文章でまとめてみた次第であります。

ちょいと最近は真面目な路線で、おそらく衆議院選挙が終わるまではこんな感じかと思いますが、興味を惹かれる話題があれば適当にお相手をお願いします、という事で。


以上、今日はこれにて。
読んで頂いてありがとうございました。


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コメント

BKOと、知的進

BKOと、知的進歩も執行したいです。

それは

素晴らしい事ですね。向学心を自ら持つことは大切だと思いますし、こちらこそ宜しくお願いしますね。
ただ、執行ってのが微妙に気になるわけですけれども・・・(笑)。
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