1Q84考察

前回の「1Q84雑感」の続きです。のっけからネタバレと妄想全開になるかと思われますので、小説の内容を知りたくない方はまた後日にお出で下さいませ。という事で、いきなり話を進めます。



・深読みというか妄想したこと

読みながら、ある種の陰謀論を考えていました。きっかけは、リーダーの言葉を全て信じて良いのか?という疑問。自分とは直接関係が無い事には誠実に答えている印象があるものの、彼の生死が影響を及ぼす事柄については、謀っている可能性も否定できないというか。交渉という事を考えた時に、彼が裏の意図を隠し持っていたり、少なくとも意図的に語らなかった部分があると考える方が自然な気もします。これはリトル・ピープルの一部のセリフも同様。

で、話ついでにリトル・ピープルについて。最初は式神とかコロポックル的なものかと思っていましたが、普通に七人の小人なのかなぁと。ただ、「本当は怖い」的な白雪姫ベースなのが不気味なところ。つまり彼らは森に生きて自らの欲求を満たせる人材が得られればOKで、人に直接影響を及ぼす事は出来ないものの、人や動物の弱い部分(精神面)に付け込む事で自分たちに都合のいい状況に持ち込む力がある、という感じでしょうか。父親との関係はさておき、本文ではふかえりの母親も母親的な存在もまるで語られていない辺りが、色んな想像を可能にしています。村上作品に即した説明をすると、作中で言及されている遺伝子のイメージ+羊+やみくろ、という感じでしょうか。「かえるくん」を召還できたら全ては丸く収まる・・・と良いのですが。


それから、book1で「ニンシンしたくない」(1-p.370)と言ったふかえりと、book2で「『わたし』はニンシンしない」(2-p.308)と言ったふかえりが同一人物なのか否か。仮に後者がドウタだったとして、前者もそうなのか、それとも違うのか?いずれも完全には否定しきれない部分が残るだけに、どう考えるかが難しいです。そもそもこの小説世界の構造的に、実体というか実存が相当に揺らぎ易い傾向があるわけで。量子力学的な確率的現象として整理すると一番すんなり理解できるかもしれません(ってのはもちろん冗談ですが)。


とりあえずはこれらの理由から、読んでいる時には『羊をめぐる冒険』の更に悪いパターンというか。羊が後継者を(本人の自覚なしで)首尾よく手に入れたという結論が本線かな?と思いながら読んでいました(で、その見返りとして、無意識下の願望を現実化させたと)。この辺りは、文字通り猫と「鼠」の寓話が示唆するところでもあるのですが、そうなると最終章の描写が恐ろしく自己満足で、実体の青豆さんが哀れすぎです。結局はオハライも天吾の空気さなぎも彼の中の空白を維持するための手段あるいはアイテムに過ぎなかったという、ある意味では自業自得な救いのない結論を、一見前向きな、ちょっと魯迅の『故郷』を連想させるような描写で覆い隠して締め括っていたのであれば、なかなか凄いものだと思います。ま、外す確立の方が断然高い空想というか妄想的な解釈ですし、本命に対する大穴のような説ですが。。



・今後の展開

個人的には、book3が出る方に一票。『ねじまき鳥クロニクル』と同じような形で、少し間をおいて続編が出るのではないかと。この2冊を読んだ限りでは、もしも続編があればそれは既に書き終えている印象で、ただそれがあと1冊なのか2冊なのかは全く分かりません。また、可能性はまず無いと思いますが、一旦完結したこの物語の更なる続きを、作者が新たに書き継ぐ展開にも期待したいというか。まぁこれは『ねじまき鳥クロニクル』第三部の発売がアナウンスされて以来の希望なので、叶わなくても気長に待ちますよと。そんな感じです。


内容的には、素直に考えれば青豆は死なずに組織に囚われ、酷い状態には置かれるものの「101号室」ですら彼女の意思を覆す事は出来ず、天吾の精神的に前向きな姿勢が遂には「森」への入り口を見つけ出して(作品を書く事が彼にとっての「井戸」になる)、彼女(と場合によってはふかえりの実体も)を取り返すという展開。ただ、この場合は今までの村上長編の集大成みたいな感じで、あまりに予定調和でイマイチ面白くないだけに難しいところ。でもまぁ、こうした基本的な物語を軸に構造を複雑に階層化するのは作者の力量ならば可能でしょうから、本命と言えば本命な感じです。

上に書いた妄想に従うなら、二人の巫女を傍らに天吾が王国の建設を無意識的に目指す展開になるのでしょうか(天吾の作品が持つ意味が、本命説とは完全に逆転する)。その場合、老婦人や戎野先生のポジションが問題になりそうですが、それらを消化しつつ、観念上の処女性に基づいた受胎にまで話を進めるのかどうか?といった辺りが気になるところであります。って、ここまで行ったらホントに妄想以外の何物でもないですが(笑)。

あとは物語の締め方で、例えば4冊組みになった時に、book3が10月-12月で一旦終わり、book4が1Q84年の1月-3月で、そのままbook1に引き継ぐ展開だったらどうなるか?なんて考えてみたり。単なる循環構造ではなく、イメージ『ドグラ・マグラ』的な多層構造が入り乱れる形だと面白そうです。あと、3冊組みだったら、『平均律クラヴィーア』の次は『コルトベルク変奏曲』辺りを希望したい気持ちもありつつ・・・ってネタに走っていますが(笑)。


まぁ、色々と考えてみましたが、結局は素直な展開から、最初に書いたように「その後の二人」を書き継ぐ展開というか。約10年が過ぎて、新たな後継者の下で急速に組織を回復させた「さきがけ」と向き合う二人を軸に、現実とは更に異なった世界が展開される『1QQ5』なんてのに続いて行くのが個人的には一番楽しめそうです。そういえば、時期を前倒しして地震が物語に影響を与えるかも?という微かな期待もありましたが、さすがに場違いだったみたいで。その意味でも、続編として1995年を扱ってほしいなぁと思うのでありました。



・小説世界の構造について

物語の最後の段階では、青豆も天吾も同じ1Q84年に存在する事になっています。ただ、彼らは時間軸は共有していても空間を共有しているかは断言できない雰囲気があって、少なくとも青豆は違いを確信しているみたいです。相対論を連想させる記述が作品の中にいくつかあったので余剰次元とか、あるいはクラインの壺などを導入するとすっきりまとまるのかもしれませんが、そのモデルだと自分の能力が追いつかないので(苦笑)分けて考えると。。

空間については基本的に青豆は天吾の小説の中の世界、天吾は最終的に1Q84年の世界に存在していて、小説世界での出来事が現実を変容させるようなモデルと捉えてみます。一方の時間軸ですが、1984年→移行期→1Q84年という流れがあり、少なくとも右端に辿り着いた時点で左端には戻れないと考えられています。1Q84年を象徴するのは二つの月で、青豆は早い時期に、天吾は物語の終盤でそれに気付きます。移行期には、物語の始まりと同時に入ったと考えられます(非常階段を降りる時ではなく)。


難しいのは、青豆がどのような変遷を経て1Q84年の小説内世界に辿り着いたのか?という事。1984年の青豆が移行期を経て1Q84年に、更には「さきがけ」と絡む辺りで小説内に取り込まれたのか?それとも、最初から小説内に存在していて、ただ時間軸だけが1Q84年へと変化したのか?話としては前者の方が含みが多くなるのでそちらを本命とすると(背理法でそれなりの確証は得られそうですし、気分的にもそちらの方が良いので(笑))、では何が青豆を不思議時空に引きずり込ませたのか?

これは、例えば入れ子構造の連続として捉える事が可能です。ただ、どうやって?という疑問が残りますし、それは先行きの不安に繋がります。つまり、本命の路線である「二人の再会」が実現する為には、いずれかが時空を超える必要があるわけで。で、説明が難しいので論理の飛躍が多くなりますが、「小説の中の世界」という表現が紛らわしいのであって、青豆は「天吾の潜在意識に取り込まれた」と考えると、SF的には話がスムーズになります。漫画で言うと『レベルE』の野球部バス消滅事件みたいな感じ。その場合、天吾の精神面の変化が青豆の解放に直結するので話の流れがスムーズになりますが、いずれにせよ、語られていない部分を大幅に補った上での推測なので、苦しいところが多々あるのが残念なところです。



・その他、連想した作品とか

lunaticの話からは普通に『the dark side of the moon』で、終盤でeclipseが生じて全ては闇へと・・・という結末なのかなぁと邪推してみたり。そういえば、基本的には印象の悪い終わり方を(少なくとも表面的には)しない村上作品ですが、暗い結末を予想させる作品を連想する事が多かった気がしました。

例外としては、特にどの場面というわけではないのですが、藤子F先生の作品が読みたいなと何度か思いました。『ドラえもん』で影を切り取る道具が出てくる話がありましたが、実体が乗っ取られる恐怖もさることながら、その事実を当人が知る前の作中に漂う不気味な雰囲気とか(『大長編』などでよく出てくる)。より現実的な恐怖を提示する事もできるはずなのに、物語の主眼をそこには置かない一連の『SF短編』もので味わえる空気とか。あの感じをまた体感したいなと、読みながら思っていたのでした。

その他にも色々あった気がするのですが、あんまり思い出せないので、「連想した作品」は企画倒れという事で・・・(苦笑)。



・まとめ

小説の読み方は、2つの軸の組み合わせによって、大まかに4種類に大別できます。1つの軸は「浅く読む」か「深く読む」か。もう1つの軸は「肯定的に読む」か「批判的に読む」か。そして、いずれの軸でも、傾向的に後者が前者を批難したり見下します。ちなみに自分の場合は、前者の軸については「深読み」を志していますが、後者の軸は是々非々で臨んでいるつもりです。ある意味ズルイ立ち位置です(笑)。

前回の「雑感」を書き終えた後で、既に自分が書く内容は固まっていたので、いくつか他の方のレビューなりを拝見してみました。そして読みながら彼らを上記の基準に従って分類し、更に再構築を試みてみました。その結論は、村上作品とは、つまり想像力に訴える作品ではないかという仮説でありました。


例えばある読者は、作品の中の特定の要素:音楽や料理や主人公のライフスタイルや、それらにリアリティを感じて共感します。場合によってはそれを現実に実行に移し、買ってきたヤナーチェクのCDを聴きながら料理を作ったりします。逆にある読者は、それらにはまるでリアリティを感じません。それどころか、作者の文体に気味の悪い嫌なイメージすら持ちます。これは、単に知名度のある作家だからという説明も出来そうですが、それにしては嫌悪の度合いが激しい方が多すぎる印象で。それよりも、村上作品が彼らに負の想像力を与えたと考える方が無難かと。つまり、方向性は逆でも、作品から受ける印象と、それによって自分の中で発揮される想像力の強さという点では共通しているわけで。後者の場合は、それを無意識的に昇華する為にも前者の読者への批難に走り易い傾向がある、と説明できるのかもしれません。確実に怒られそうですが(笑)。

小説を深く読める読者が村上作品を否定的に語る時、彼らは読者への批判以外にも、自分がよりリアリティを感じられる作品を連想する事での昇華が可能です。故に、比較的冷静で建設的な批判の割合が増えます。そして、肯定的に深く読む読者は、作者の物語りを補完し、自ら作品をつむぎます。そこで必要とされるのは、いずれも想像力です。


あまり解説本なりを読んだ事がないので印象論ですが、村上作品の読み方というと解釈をもっぱらにしている感を受けます。そしてそれは、個人的には小説の自由度を狭める事になると思います。解答が必ずある保証も、それが一つに定まる保証もない状態での読書は、確かにある意味ではストレスかもしれません。が、自分の中で作品を自由に処理できる経験がもたらす恩寵に比べると、ごく小さなリスクに過ぎないわけで。故に、村上作品の読み方として一番面白いのは自分自身というブラック・ボックスを通して作品を再構築する事で、出て来たものが仮に稚拙なものであったとしても、一般には受け入れられにくいものであったとしても、さほどの問題ではないのではないかと。

そう考えて作品に向き合ってみると、言葉の使い方や状況設定、そして明文化されている範囲などの面で、作者の意図が行き届いているのが分かります。特にこの作品では、いつにも増して徹底している印象です。それは、より直截的に言うと、読者にとって作中の色んなものが実に使い易い状態にあると。こうした、ある意味で読者に下駄を預けすぎる姿勢は、また新たな作者への批難に繋がるかもしれません。しかし、「雑感」の最初の段でも触れたように、そのズルさは作者の技巧の上手さとバーターなわけで。


もう少し具体的に言うと、村上作品においては「最低限」が行き届いている印象を受けます。これは芸術作品が往々にして「最高を目指す姿勢」を強要されるのと対照的で、そこに基づいた批判も多いのだろうと推測できます。しかしながら、最高に拘るほど振幅が大きくなるのは確実なわけで。結果として駄作が増えたり、作品内でも稚拙な部分とあまりに巧妙な部分とが同居し易い傾向があると考えられます。

一定の水準をキープする姿勢からは、新しい思想や理論はまず生まれません。作品内におけるテーマも、分かり易い形で小さくまとまりがちです。それらを駄作の証とするならば、この作者が傑作を生む事は無いと言えるのかもしれません。しかしながら、仮に評価の基準を変えてみると。つまり、作品を読んでいる最中の吸引性というか粘着性というか、現に読書中の人に与える印象の強さという点では、この作者は桁外れの実力を誇っています(仮にそれがマイナスの印象で、また読後急速に失われるものであったとしても)。

ことさら作者を擁護するつもりも、あるいは瑕疵を見逃すつもりもありませんが、こうした「最低限」の姿勢に担保されて読者の「想像力」に挑みかかる作品を生み出しているという点で、この作者の存在はやはり興味深いものがあるなと。改めて思った次第でありました。願わくば、続編によって本作品の評価が決定的になるような、そんな傑作が続刊される事を期待して、締めにしたいと思います。



そんな感じで、妄想に溢れた考察である上に、特にまとめの部分は結論ありきの論立てで無理な展開も多々ありますが、お目こぼし頂ければ幸いであります。ともかく、何とか形になったので一件落着という事で(笑)。

以上、今日はこれにて。
読んで頂いてありがとうございました。


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コメント

苦笑ってなに?

苦笑ってなに?

苦笑とは

ニガワライの事でありまして、ニガウリを勢い良くガリッとした時の感じだとか、コンチ・クショウと思いながらもその心境を素直に吐露できない時に仕方なく浮かべる表情だとか、妙な成り行きからあまり好きでもない人とイチレンタ・クショウという状況に陥った時の諦めまじりの気持ちだとか、まだ第二ガ・クショウかよ!という事に気づいた時のやりきれない思いだとか、まぁそんな感じではないかと思うのでありました。
これで分かったかな?

No title

素晴らしい。

>匿名さま

褒めていただきありがとうございました。
何らかの参考になっていれば嬉しいです。
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