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衒学的な表現

ちょっと読み物をしながら思った事。衒学的、英語で言うとpedanticですが、今日はそれについて。


若かりし頃、というか最近でもそんな傾向は残っているのですが、自分は衒学的な表現への嫌悪感が、一般の平均よりも強かった気がします。特徴としては、「知識のひけらかし自体」を嫌うのではなくて、「理解が浅いのにひけらかすから」嫌っていた部分がありました。より厳密に言うと、執筆者の理解の問題なのか、それとも使用上の問題なのかに分かれるのですが、それを以下でもう少し詳しく書いてみます。



・理解不足、あるいは誤解による誤用

多いのは、聞きかじり程度の理解で修めていた事を思い付いて使用する場合。それから、かなり重なる部分もありますが、自らの能力を主張する目的で、敢えて難しい事に言及している場合。難しい事をきちんと理解するのは当然ながら難しいわけですが、生兵法が怖いのはどんな場面でも変わらないわけで。命に関わらないのに大げさな、と言われるかもしれませんが、場合によってはそれは信用の低下に繋がりますし、文字通りの命取りになるケースも少なくない気がします。

言論に関わる仕事をしている方はもちろんですが、政治家や企業の幹部から営業畑の人まで、「言葉」が重要な働きをしている仕事に就いている方は、案外多いのではないでしょうか。特に営業職を念頭においてみると、顧客が決断する理由として、具体的な論理やデータに裏打ちされた要素よりも、会話を通して醸成される雰囲気に因る部分が多いという話があります。そして、商談とは関係のない雑談の中で露呈した理解不足であっても、相手がそれに詳しい方である場合、商談の内容そのものへの理解も大丈夫だろうか、という疑念を抱かせる危険があります。


とはいえ、そうした事への警戒感が先に立って無難な事ばかりを話していても、信用を得られない可能性は充分にあるわけで。また、物事の本質を見抜くのが抜群に上手いとか、一度覚えた事を何十年にもわたって覚えているような超人的な能力の持ち主であれば別ですが、大抵の人にとっては、理解不足なり誤解なりは少なからずあるわけで。そう考えると、気にし過ぎるだけ損という話も出て来ます。

また、気を付けたいのは、受け手側の理解不足というケースも同じぐらいの割合で存在しうるという事で。例えば読み物について言えば、自分が誤解をしているという可能性もあるわけで、後になってこっそり作者さんにお詫びする事もあったりします(苦笑)。逆に、こちら(話し手)の理解が正確でも、相手側の理解の問題で誤解が生じていた・・・というケースもあります。ただ、この場合は問題が露呈する事は稀で、誤解されたままという結末が多い気がします。


では、どうすべきか?先に述べたような超人的な能力を身に付けるのが一番の解決策なのでしょうが(笑)、一般人としては「自分と相手の双方で誤解の余地を考慮した表現を心掛ける」のが、一番無難ではないかと。それは問題の文章を反面教師にしているという側面があるのですが、つまり、自分の理解不足という可能性を考慮して、更には受け手側にも想像力を働かせて文章が書けているかという事で。こうした心構えを持っているかどうかで、文章の印象もずいぶんと違ってくるのではないかと思うのです。

理解不足や誤解がある程度の頻度で生じるのが避けられない以上は、厳密性の追求に神経を費やしても得られるものは少ないという側面。それから、そうした厳密な文章は、えてして受け手側に誤解を生じさせ易いという側面。受け手が誤解しないにしても、文章の与える印象という点ではマイナスになるという側面を考えると、余裕を重視した文章の作り方を志すのが一番ではないかと。そんな事を考えていたのでした。



センスの問題

予定以上に長くなってしまったので、以下は簡単に。

筆者の理解が正確で、更に受け手の理解に問題がなくても、あまり良くない印象を残す書き方があります。これは最初に書いた「執筆者の使用上の問題」に当たるのですが、その原因は書き手のセンスの問題ではないかと。そして、特に向こう見ずな10代の頃には、そうしたセンスに欠ける表現者を嫌悪していた記憶があります。というか、嫌悪というと表現としては厳しいので、敬遠という感じでしょうか。


具体的には、引用の仕方が下手というか、微妙にずれているケースが多いというか。たとえ話を例に取ると伝わり易いのではないかと思うのですが、話の主題にピッタリな譬えが少なく、どうにも微妙な印象を受ける譬えが多い書き手は、知識人と目される方の中にもそれなりにおられる印象で。これは翻訳ものを読んでいても時々感じるのですが、哲学的な文言や古典文学の表現などを、出典元を強調しながら引用するケースが目立つ書き手が少なからずおられます。その方の知識の量と質には敬意を覚えるものの、話の主題として、あるいは話し手としてはどうなのだろうという疑念がついて回るという感じでした。


今になって思うのは、使わない知識はどうしても忘れ易いという事で。「少しぐらい」本筋から逸れても、思い付いた時に使っておく事はまず自分にとって有用で、読者にとっても目的外の知識というのは案外馬鹿にできないというか。思わぬ拾い物があるからやめられない、という要素を、昔よりも実感しているが故の変化なのかもしれませんし、また、書き手側の事情をより斟酌できるようになった事も大きいのかもしれません。

もちろん、話の主題に完璧に合致する、しかし全く思いも掛けないような引用をできるのであれば問題はないのですが、少しぐらいずれていても構わないという、受け手としての余裕というか。上記の「少しぐらい」の許容範囲が年々拡大している事が原因として大きいのかもしれませんね。・・・と、許容範囲と言えば、前段の「理解」についても、かつては90点以上じゃないと違和感を感じていたのが、最近では6割で上等と思えるようになった影響がありそうです。



・「馬鹿の一つ覚え」への対応

学んだ知識を反復練習する事で身に付けるのは重要ですが、それを妨げるものとして、「馬鹿の一つ覚え」というちゃちゃがあります。これは中高生の頃に多かったのですが、とりあえず自分は二回目以降は、「いやいや、馬鹿の一つ覚えを繰り返してるのはどっちやねん?」なんて切り返して、笑いを誘って収める事が多かった気がします。

何となく懐かしく思い出したので書いてみましたが、考えてみると生意気な事ですね(笑)。



以上、今日はこんなところで。書き出した時には1/3ぐらいの量を想定していたのに・・・ってのはいつもの事ですが(苦笑)、最後まで読んで頂いてありがとうございました。
今日はこれにて。


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tag : 衒学的 生兵法 信用 想像力 余裕 センス 許容範囲 馬鹿の一つ覚え

コメント

JFKは、表現者

JFKは、表現者対応しなかった?

コメント

今日に限って新コメントが3つもあってビックリしましたが、一日せいぜい10人程度の往来しかないブログにまで定期的に業者さんが現れるのは何ともご苦労な事であります。と言いつつ、毎回さくっと消去していますが(笑)。

で、JFKがついにコメントにまで進出してきましたか!油断も隙もないですなぁ。。。
とりあえず表現者としてのJFKは、たまに核心に迫る事を書いて来たりするので、対応に気を付けるべき相手かもしれません。って感じで褒めておきます(笑)。
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