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眠れる美女

今日は、連休中に読んだ本の中から、川端康成「眠れる美女」(新潮文庫)について。

大晦日に三島事件について書いて以来、読み返したいと思っていた本書ですが、それは巻末の解説を三島さんが書いている事と、それ以上に本作を川端さんの代表作の一つだと勝手に考えているからであります。ちょっとアマゾンでレビューを流し読みした感じでは、最近の版でも解説は変わっていないみたいで一安心(レビューについては後述)。

さて。表題作と、それに対する三島さんの解説とで、川端さんと三島さんの違いが如実に表れていたと記憶していたのですが、再読でそれを確認できた気がしました。一言で済ませば天才と秀才の違い、という事になるのでしょうが、それについて少し詳しく書いてみたいと思います。


解説の中で三島さんが提示している「愛」や「悪」、更には「死」「性慾(欲)」についても、それらは規定されたもので、何かしらの対立概念が透けて見えます。更には前半部分で「半端物」を批判している姿勢も併せて考えると、もとの作品との乖離を、個人的には覚えてしまうのです。

三島さんが挙げる諸要素が「眠れる美女」の魅力の要因になっているのは確かでしょうが、そもそも、それらが混沌として存在しかつ破綻していない事をより重視したいというか。説明書きにすると難しくなってしまいますが、要は、川端さんの思考において諸々の概念は境界があやふやで、通常考えられる対立概念をも内包して同時に存在している印象で。具体的に言えば、「死」と「生」の区別を付けず、かつそこには「悪」も「老い」も「性」もある、というような感じを受けてしまいます。

乱暴な事を言えば、境界を簡単に越えてしまう川端さんと、越えられはしないものの境界内を整備し徐々に境界を外に広げていく三島さんの違い、みたいなものがあるのかもしれません。個人的な好みは川端さんですが、ただ、優劣を論じるべきではないとも思っています。川端さんの曖昧さは確かに中途半端に流され易いし、三島さんの場合は超えられない壁を招き易い。しかもこれは各々の型とでも言うべきものなので、簡単に変更できるものでもなく。難しい仕事に一生を掛けた両氏には頭が下がる思いであります。


で、アマゾンのレビューについてですが、解説の影響が強すぎると思ったのが一点。三島さんはあくまで理解し易い枠組みを提示しただけで、より深く充実した印象を持っていたのは間違いないでしょうに、これが全てという理解で済ましている方が多い気がするな、と。書かれていない部分も考慮に入れている印象をあまり受けなかったのが残念でした。

もう一点は、この作品の主題に対する誤解というか。性に執着する老人の醜さ、だけでは不十分な気がするのであります。といいつつ、最初に読んだ時は自分も嫌悪感を抱いたものでしたが。。。そうした解釈への不満や書き方の問題を考えると、未読者に一番親切なレビューは英語で書かれたものだったような。。同じ人でも英語と日本語では前者の方が論理的な文章が書ける、なんて話がありますが、これもそんな感じなのでしょうか?ま、それは蛇足なのでさておいて。


自分が今回感じたのは、この作品で川端さんは確かに老人の性への執着を書いていますが、その根底には回春の思いの他に、成熟した女性を避ける惨めな気持ち、充実していたと自負できるだけの過去の経験などがあり、かつ絶対者の立場にはない事も重要ではないかと思ったのでした。三島さんが書く、眠る少女という対象が与える安心感を、老人たちは一夜を通しては持ち得なかったと思えてならないのです。ゆえに、執着についても自分一人に止まっていないというか。身勝手な執着ではなく哀願に近い執着というか。

上手く説明し切れないのが残念ですが、醜いと切り捨てるだけでは表面的にしか味わえない印象で、この老人の行動なり感情の起伏なりについても、書かれている事だけを鵜呑みにするのは危険で、その根底にあるカオスに迫らないと味わえないものを感じるというか。相当の深さを感じてしまい、読後にはすっかり疲れてしまったのでした。


そもそも、老人と少女という組み合わせは、それなりに健全、というと語弊がありそうですが、どことなく納得できる要素があるような。少女相手=ロリコン、と切り捨てるのは、老人の場合はまた少し違うのではないかな、と。秀吉は未熟な年齢の少女を愛し、未亡人好きの家康も晩年は少女を同衾させた、なんて話がありますが、それは権力者だからできた事、だけではなくて。この作品においてもメンバーは世間的に成功を収めた人々らしき記述がありましたが、金があるからできる、だけでは恐らく不十分で。何かしら近しい人生の過ごし方をした方々が、老齢において希望しやすい共通の思いなのではないかと。

古代ローマの二代目皇帝ティベリウスは、幼い少年達と遊楽に耽った、なんてゴシップを流されましたが、これも(仮に事実だとしても)噂にあるような風呂場で云々といった生々しいものではなくて、姿を眺めるだけとか傍に居るだけとか、青年期の人々からすれば全く物足りないような行為に止まっていたのではないかな、とか。つまり、性的に激しいと一般に思われるような行為までは求めていないという点で、彼らは共通していたのではないかと思ったのです(ただ、エロスという点では、より深いものがありそうですが)。言ってみれば、子供向けの作品にこだわる映画監督の心境などに近いのかもしれません。

そして、思春期を迎えた女の子が父親の中年臭を嫌って云々という話がありますが、女においてはその前段階、男はその後の段階に至る事で、逆に奇妙なバランスが取れてしまうのではないかな?などと、妄想を逞しくしつつ読了したのでありました。どうにも上手く説明し切れませんが、できればまた十数年後に読んでみたいものであります。



で、話ついでにWikipedia↓。

ノーベル賞受賞後発表した作品は、未完となった「たんぽぽ」のほかには、短編が数作品あるだけであり、ノーベル賞の受賞が重圧になったといわれる。以前より睡眠薬を常用していた。遺書はなかったが、理由として交遊の深かった三島の割腹自殺、老いへの恐怖などによる強度の精神的動揺があげられる。
川端康成 - Wikipedia



この辺りが、wikipedia、というか匿名の限界という気がします。自殺ではない、のであれば話は別ですが、自らの選択であると仮定した場合、どうにも腑に落ちないというか。個人的には結果から下世話な演繹を働かせただけの説明、という印象を受けるのですが。ただ、これは自分が感じる事だから表明できるものの、一般化できる評価かと言われると難しいです。自分が編集するとしても、似たり寄ったりの表現にしかならないのでしょうね。という事で、以下は話半分で聞き流して下さいませ。


自分が知っているのは主に作品を通した川端像ですが、重圧になったのは受賞ではなく、受賞者としての公的な生活だったのではないかと。遺書については、確か芥川のそれを生前批判していた気がするので、そちらを参照すべきかな、と。精神的に変わった部分があるのは間違いない事だと思いますが、動揺ではないだろうし、老いについても恐怖ではないような。唾棄すべきもの、ぐらいの感覚だったのかな、と。哀惜という気持ちはあったと思いますが、谷崎ほど強くはなさそうですし。。三島事件の影響は確実だと思いますが、この文脈で推察されるようなものとは少し違う感じがします。


こんな事を公の場で書いて良いのか分かりませんが、氏にとって生死は断絶ではなく連続で、着物を脱ぎ捨てるぐらいの感覚で精神が肉体を後にしたというか。戻れないという自覚はあったでしょうし、それに起因した葛藤もあったと思いますが、それは一般の想像とは少し違うような印象を持っています。

三島さんの場合はもう少し理解し易い葛藤で、彼は丹念に物事を積み重ねる事でそこに至り、個の再生の手段と思い込めて初めて事に及べた。以前に書いたように、その再生は公のものではない、のは案外重要だと勝手に考えています。やはり、秀才と天才の違いというか。


ともかく、自死はもちろん推奨されるべきものではありませんが、仮に批判するにしても、彼らの思惟の重みに最低限応えられる程度の批判を望みたいものであります。故に、自分はこれからも考え続けるつもりですが、連休中に「豊饒の海」を捜索できなかったのが残念だったなぁ・・・と軽い調子に戻ったところで、今日はこの辺で。


長々と語りましたが、読んで頂いてありがとうございました。


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