「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」雑感


村上さんの新作が出るたびに、そしてノーベル賞の季節になるたびに奇妙な馬鹿騒ぎになるのがすっかり定着した今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか?

また、昨今の高度に発達した情報化社会にあっては、作品のネタバレがいつ何時、聞こえて来るやもしれず。故に話題の作品は発売日から間を置かず読まねばならぬという、強制の度合いとしてはさほど強くはないもののどこか急き立てられている感が拭えないのも嫌な感じですが。

とはいえ、今更マイナーな扱いに戻るわけもなく。高橋源一郎さんらと共に、文壇や王道からは少し離れた辺りで、多くの罵倒と少数の絶賛を受けていた頃を思うと隔世の感がありますが。。前置きはそれくらいにして、村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」について、読後の雑感を以下で書き残しておきます。


■概評

物語の基本的な展開としては目新しいものはなく、細部では既存の作品を連想するものも多く、否定的な批評を書くには難しくない作品だと思います。そもそもは短編として執筆を始め、それが一冊の長編になってしまった感じを受けました。個人的には、もうすこし本編の内容を圧縮して、語られなかった別の物語も収録した短編集(というか中編の組み合わせというか)に仕上げて欲しかった気もしますが、作者の意図を考えると、出来上がったこの形が一番自然なものなのでしょう。丁寧に作られているし、いつもの「壁ではなく卵の側につく」という姿勢を越えた作者の優しさを感じる作品になっています。

正直に言うと、最近の長編は途中で息切れを感じる事が多くなりました。「海辺のカフカ」では、上巻で保たれていた緊張感が下巻の途中で急に失速してしまい、「1Q84」ではBook1の途中で既に緩みが感じられました。Book3に至ってはプロットが前面に出た様式美のような枯れた雰囲気が感じられ、作者の年齢を思って歎息したものです。

それらに比べると本作は、物語の進展に合わせて謎が提示され解かれるという展開が綺麗にまとまっている為か、最後まで一定の張りがありました。それらの謎は明かされてみると意外性は少なく、長年の読者なら簡単に予想できる類いのもので、最後の引きも含め予定調和で終わった感はありますが、作品全体として見ると良くできた佳作という印象を受けました。優良可不可論外の五段階だと星3つぐらいでしょうか。村上作品に特有の雰囲気が好きになれない方でも、まだ読み易い部類の作品ではないかなと思います。


■稚拙な、あるいは素朴な物語について

阪神淡路大震災の翌年だったと思いますが、河合隼雄さんとの対談本の中で、村上さんは「稚拙な物語が求められているのではないか?」という疑問を提示しています。時期としては、地震と地下鉄の事件を挟んで「ねじまき鳥クロニクル」の第二部と第三部が発表された後になりますが、かの宗教団体が提示した稚拙なイメージが、何故あれだけ多くの人を引きつけたのか?という問いからの流れだったと思います。

河合先生はそれに対して「素朴な」と言い換えた後で、素朴な物語をどのように評価するかが重要だと、指摘されていました。近年の村上作品は、明らかに解り易い方向へと舵を向けています。いたずらに複雑化させただけの作品を評価してシンプルな作品を貶す事が間違っているのは自明ですが、では、素朴な作品はどのように評価されるべきなのか?あるいは、批判されるべきなのか?

以下、徐々にネタバレが出て来ますので、それを気にされる方は、作品読了後にまた御足労頂ければ幸いです。


さて、注意を喚起した次の行でいきなりネタバレを書くのは申し訳ないので、少し雑談を入れてみます。村上さんがより解り易い物語を志向するに至った要因のうちおそらく最大のものは、既に書いた疑問だったと思います。一方で、そうした方向性を余儀なくさせる要因もあり、特に、欧米圏で「海辺のカフカ」が予想以上に評価された事が決定的だったのではないかと、個人的には考えています。

「海辺のカフカ」は、執筆当初に企図していた事が残念ながら果たせない事が明らかになり、途中で方向転換を図った末の作品という印象を持っています。そして、この作品のファンの方には申し訳ないですが、個人的にはその修正も失敗に終わったと考えています。大雑把に言うと、それまでの作品の要素を全て織り込んだ集大成にするつもりが力及ばず、既存作品の部分部分を持ち寄った新作のオリジナルアルバムを目指したものの、結局は寄せ集めのベストアルバムにしかならなかった感があります。

しかし、聞いた話では、この作品によって欧米での地位は確固たるものになったのだとか。その理由についても何となくは想像できますが、結果として、オリジナル作品と海外での翻訳作との不一致がまだ許されていた立場から、翻訳の事も考えた作品を上梓せねばならない立場へと明確に変化した事が、以降の作品で文章量を増やし解り易い物語を志向する事になった大きな要因だったのではないかと考えています。

そこで話を本作に戻すと、購入時にタイトルを見た時にまず思った事ですが、作品を読みながら、特に会話の場面などで改めて思ったのは、やはり翻訳を前提にした文章が今まで以上に増えたなと。一方で、翻訳する時に悩みそうだなと思える箇所もあり、その辺りの折り合いやバランスを考えるのも大変だろうなと、上から目線で同情しながら読み進みました。

本作の中で、「ここまで丁寧に書くのか」という意味で印象に残ったのは、主人公が友人との別れ際に言葉にできなかった事が、最後にしっかり書かれていた点です。例えば処女作「風の歌を聴け」の中で主人公が「ひとつしか嘘をつかなかった」と述べるシーンがありますが、それが何かは明示されていません。しかし読者にとってそれを考察するのは難しい事ではなく、そして、その嘘を吐く羽目になった主人公のある種の傾向は、その後の作品において、例えば「ノルウェイの森」での主人公の選択や、「ダンス・ダンス・ダンス」でのユキとの別れや、「国境の南、太陽の西」での島本さんの決断や、「蜂蜜パイ」での淳平の遠回りなどをもたらしました。

今作の締め括りを表面的には綺麗な形に整えたその描写は、一部の読者にとっては歓迎できるものだったと思います。しかし逆に、これで作品の魅力が失われたと考える読者も少なくないと思います。この素朴な作品の評価に関しては、この描写の価値をどう見るかが、一つ大きなポイントではないかなと思ったのでした。なお、もう一つの大きなポイントについては後述します。


■物語の構造について

この作品では、主人公がかつての事件の謎を追うという大きな構造の中に、彼に直接的・間接的な影響を及ぼした過去の物語が挿入され、展開して行きます。読みながらも、そして読み終えてからも考えていたのは語られていない部分についてですが、そうした傾向も含め、特に今までの作品と違いはありません。と言うよりも、デビュー作からこのスタイルは変わっていないと考えて良いでしょうし、それゆえに過去の作品が読解の手助けにはなります。ただ、それほど力を入れて読み解こうとしなくても、本書だけで完結した読み方で充分だと思いますし、軽く読まれることを望みながら執筆された作品だと思います。

一つ自分が面白いかもしれないなと思ったのは、この作品が仮にいくつかの短編に切断された形で発表されていたら、どんな仕上がりになっただろうか?という疑問です。これは、概評で書いた中編×2という形ではなく、例えばメイン・キャラクターが順に語り部となるような形を想定しています。

その場合、作品の中でも独立した性向が感じられた緑川と灰田父の話が異質な存在感を放つ一方で、青赤白黒の各人が語る物語は、ほぼ同一の話になります。しかし、細部が違う。特に柚木が語る「真実の最終的なヴァージョン」は異彩を放つだろうし、芥川の「藪の中」にも似た面白さがあったのではないかと思いました。あるいは、物語自体が大きく変わってしまいますが、最近の作品で言えば森見さんの「四畳半神話体系」のような、選択の違いによる物語の分岐を書いても面白かったかもしれません。その場合、中盤に枝分かれした物語は、しかし結局は同一の状況に至らざるを得ないのでしょう。この作品において、仮に恵理と付き合っていても、最終的には同じ未来になったのと同様に。


■作品の設定について

36歳の主人公という設定は、明確に団塊ジュニアという世代を意識しているのが感じ取れます。言い換えれば、春樹さんのまさに子供の世代に当たります。しかし一方で、物語の中の現在が具体的に何年なのかは明瞭としません。作品の発売時点の2013年と考えても違和感はないものの、作中の雰囲気として、例えば2011年の地震の後だと明確に判断できる空気感などは感じ取れませんでした。より正確に言うと、もしも自分が見落としていただけで小説の中で年代が明記されていたとしても、それを裏付けるような説得力は感じなかったという事です。だいたい2010年から数年のスパンが想定されているのではないかな、と思いました。

これは例えば「海辺のカフカ」にも当て嵌まる事で、あの作品も2001年9月という区切りを意識させず、2000年辺りという数年の曖昧さを残した設定だったと思うのですが、あの時は14歳の主人公の生年を考える必要はありませんでした。田村カフカくんが世代を問われないキャラクターであった事、つまり今までの村上作品の主人公とさほど変わらない存在だった事に加えて、おそらくはそれゆえに母と特に姉との関係性を物語として描写することが充分にできなかった事、その一方で物語後半に星野青年が存在を確立してしまった事が大きかったと思います。ちなみに、星野青年も世代を考える必要のないキャラクターでしたが、実際は多崎つくるとほぼ同世代と考えて良いでしょう。では、この作品ではどうだったか?


団塊ジュニアと言っても厳密に考え出すと範囲が広くなりますが、この主人公は昭和50年代の生まれが想定されています。それはつまり団塊の世代の子供という側面が重要な意味合いを持ちますが、一方でこの世代が1997年以降の就職氷河期に遭遇した事、20歳前後の多感な時期に本書でも唐突な言及があった地下鉄サリン事件を経験した事などは、物語への影響としては排除されています。特に後者は、主人公が仮に昭和51年4月以降の生まれならば大学で東京に出る前に起こった事件になり、5人のグループに何かをもたらしたはずですが、作者はそれを退けています。しかし、この事をもって主人公がそれ以前の生まれであるとは言い切れません。

36という年齢を考えた時に、長年の読者はおそらく、ある短編を連想します。35歳を人生の折り返し地点と決めた男の誕生日当日および来し方が描かれた短編「プールサイド」で、仕事で成功し家庭を持ち愛人もいる主人公は、自分がもう若くはない事、老いている事を自覚します。しかし多崎つくるは、既に人生の折り返し点を過ぎたにもかかわらず、それらの何をも持っていない。たぶん作者としては、36という設定がギリギリだったのではないかと思います。40代は勿論、これが38でもおそらく難しい。なお、そこで一つの疑問が浮かびますが、それはまた後ほど。

さて、今までの作品では、関係性の構築はだいたい30歳前後で終わっていました。どの登場人物であれ、少なくとも30代になって一から始める事はなく、既に決定された関係性(それは、関係を持たない事が決定された場合も含め)を軸にした物語が展開されました。しかし、現実に未婚のこの世代を考えても分かるように、彼らはそれをしなければならない。かつての登場人物たちがゆっくりと死の支度を始め出していた年齢で、彼らはまだ10代や20代と同じ事をしなければならない。改めて考えると厳しい事だなと思いますが、この作品ではそんな世代に向けた作者の優しさが感じられました。勿論、人生の難しさや年月の重みは厳としてそこに存在し、それを排除する事は作者であっても、作者であるが故にできない事ではあるのですが。。


さて、年齢以外の設定としては、今までの村上作品とは違った部分が注目されるのではないかと思います。まず、社会的に成功したとは言えなくとも、きちんと正社員として働いている事。そして、主要な女性キャラクターとは現実に性的な関係を結んでいない事。主人公が高校時代、5人の集まりから性的な要素を極力除外しようと尽力したように、彼がそうした状況に陥らぬよう、作者もその機会を丁寧に排除しています。もっとも、この程度でアンチの方々が主人公に好感を持つかというと難しいとは思いますが、倫理面で今までの主人公からわずかに改善している点は少し可笑しかったです。それが小説に何か決定的な変化をもたらすかというと、大した事はないとしか言えないものですが。

いちいち挙げているときりがないので最後に、名古屋という設定について。作中で名古屋の持つ地縁的な特徴が出て来ますが、それも含め表象的な扱いだったと思います。これも特に名古屋である必然性はなく、物語の展開を考えた時に無難だったので採用した程度という印象でした。


■既存作品を連想させる要素について

作品を読みながら常に頭の片隅に浮かんでいたのは、本作と同様に数冊からなる長編に囲まれた位置にある一冊ものの長編「国境の南、太陽の西」です。例えば高校の同級生4人のキャラクターが提示された時点で、あの作品の中でも特に短編「今は亡き王女のための」と重なる部分を意識せざるを得ませんでした。「もう可愛くはない」「うまく見分けがつかない」姿になってしまった過去の登場人物と同様に、「きれいじゃない」彼女が描かれるのは予想できたし、その変化には子どもの事が絡んでいるのも、そして現在は「住所を持っていない」のも予期していました。

個人的に意外だったのは、彼女の最期が「ノルウェイの森」の直子のような形ではなく、「1Q84」の警察官あゆみや「ダンス・ダンス・ダンス」のキキのような形だった事。読み終えた今振り返ってみると異論はないのですが、この違いについては考えさせられる部分がありました。ついでに、奇数からなる男女の集団で主人公が要の存在になるという設定は、古い作品では僕と鼠とその彼女、有名どころでは「ノルウェイの森」のキズキと直子、永沢さんとハツミさんの間に主人公が加わっていた場面を連想しました。

また、作中で何度か出て来た「肉体か心か」「手の爪か足の爪か」など、「どちらかを百パーセント受け入れ、どちらかを百パーセント捨てる」選択は、やはり上記長編の島本さんを思い出しました。そこには選択の自由があるとはいえ、決定的な事になってしまう何かが潜んでいる。そして、主人公にはそれが分かっていない。。おそらく「1Q84」の続編でも遭遇する事になるこの種の選択には、読者の立場としても辛い事だなと溜息を吐きたくなりますが、物語最終部の作者の描写では短編「蜂蜜パイ」に登場した作家の淳平が寝ずの番に挑む姿勢が連想され、まるで往年の羊男のように主人公を温かく見守る作者の存在を感じてほっとしました。一方で、その視点はどこか「アフターダーク」の語り部を思い出させ、この物語の背後にあるものを暗示しているようにも思えます。


最後に、本作の中で「多指症」が印象的な要素になっていました。考えてみると、デビュー作では4本指の女の子が出て来ましたが、彼女はやはり「生まれなかった子ども」を背負っていて、それは村上作品を通して大きなテーマになっています。近年では、短編「タイランド」の主人公さつきが身体の中にある石と向き合い、その比喩の延長と思われるのが短編「日々移動する腎臓のかたちをした石」の作中作でした。

この物語の中で主人公は、緑川が布の袋に入れていたものは六本目の指だったのではないかと推測します。しかし、いくら肌身離さず持っていたとしても、過去に自分の身体にあったものが切り離され消滅した事もまた事実で、残された身体にはそれと引き替えの何かが生じる可能性があります。ちょうど、子どもの代わりに身体に入っている石のように。そしてその石が動く時には、「海辺のカフカ」の石と同じく、違う世界への入り口が開くのかもしれません。

「スプートニクの恋人」では、ミュウに欠けていたある種の空白が、彼女の中から排卵を含むいくつかのものを一夜にして奪い去り、それらはすみれと共にあちら側の世界に存在します。本作の主人公は「ねじ巻き鳥クロニクル」の第三部での主人公と同様、それと意識せぬままに彼女をあちら側に引き寄せようとする何かを自身の身に引き受けてそれを弱め、そして射精をします。そこに含まれていた「羊」を連想させる悪しきものの一部は、短編「品川猿」のように灰田が引き受けて去って行きました。しかし、結局彼女は失われてしまうしかなかった。。読者としては、鼠を喪った主人公が長いダンスを何とか踊りきって出会ったユミヨシさんのような存在に、多崎つくるが巡り逢えている事を願っています。


■色彩について

主人公の高校時代の友人4人はそれぞれ、青、赤、白、黒の各色を姓に含んでいます。仮にこれを五行における四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)に当てはめると、主人公は黄龍となるわけですが。。主人公の色が実は黄色となると、欧米文学の文脈から考えると微妙というか、ある意味では決定的な事になりかねないだけに、難しいところです。また、同じく五行を援用すると木元沙羅の色は青になりますが、これも設定としては扱いに困りそうで、何とも言えません。

物語では他に、灰と緑が登場します。とはいえ、特に西洋において緑が持つ暗喩を前提にするには、本作での描写は不十分なところで終わっています。英語版が出ればもう少し解明できるかもしれませんが、個人的にはあまり興味を惹かれないのが正直なところ。断言はできませんが、既に書いた名古屋と同様、作者としてはこの設定にそこまでの深みを与える必要性を感じなかったのではないかな?という感じがしました。


■書かれていない事について

勿体ぶっていたわけではないですが、本編では、多崎つくると並んで色彩を持たない存在である木元沙羅が充分に描写されてはいません。それゆえに、なぜ主人公は彼女の事をここまで求めるのか(ついでに、なぜ行為の途中で失敗したのか)、それらの根拠が読者に伝わりにくく、読後の印象を弱めているのではないかと思います。彼女は果たして過去に主人公と接点のない、一から新たに関係を作り上げていかなければならない存在なのか?加えて、彼女のいくつかの発言は、読者に疑問を生じさせます。これらの点を考える事が、本作の評価の為のもう一つのポイントではないかなと思うのです。

例えば彼女は38歳の女性として設定され、にもかかわらず主人公に向かって、「まだ時間はあるし、私は待てるから」と口にしています。それに続く「片付けなくてはならないこと」は作中で一応は明かされていますが、子どもを持つ事を考えるなら年齢的に猶予がない立場の彼女がこうした発言をした意味は何なのか?そして、彼女の笑顔は主人公の心に重くのしかかる事になりましたが、その背後にあるものは何なのか?

物語の構成から彼女について想像できる事はいくつかありますが、現実的には、作者がそれを文章にする意図のあるかなしかが問われる事になります。そして仮にそれが上梓されるのであれば、その新作では、主人公の中でつっかえている存在である灰田の関わりも語られるのかもしれません。しかし、それはおそらく過去の話になるのでしょう。


■終わりに

個人的な話を書くべきか悩みますが、自分も過去に「性的な関係を誘われた」的なでっち上げをされた事が二度ほどあります。本作のレイプ疑惑よりは遙かにマシですが、友人としては仲が良くとも異性としての魅力を感じていなかった女の子がそうした嘘を吹聴した意外感と、他の友人が自分よりも彼女たちを信じたという現実は、なかなか辛いものがありました。

いずれの場合も、共通の友人が存在する故に対応に悩みましたが、結局はどちらも自分から関係を切る決断になりました。一人は、それと同時期に金銭絡みの事が仲間内で持ち上がった時の、彼女の身勝手な対応に嫌気がさして。一人は、直接弁明を聞いていた時、その場を取り繕う発言に対して「誰々はこう言っていた」と告げたところ、小声で「なんで言うかなぁ」と呟いた姿に感服して。

幸いにして自分は、本作の主人公のように死を思う事もなく、女性に疑念を抱く事もなく済みましたが、それでも嫌な感じは記憶の中に感触として残っているだけに、この作品を読みながら人ごととは思えない部分がありました。読後にいくつか不満点はありつつも、主人公が幸せな結末を迎えて欲しいなと思ったのは、そのせいかもしれません。


既存作品の連想の項で、子どもの事について書きました。長編を振り返ってみると、主人公に関わった女性で子どもがいるのは、「国境の南、太陽の西」では妻の有紀子、そして「1Q84」での青豆ぐらいしか思い付きません。もちろん「ノルウェイの森」のレイコさんや「ねじ巻き鳥クロニクル」の加納クレタを含める事はできますが、彼女らは主人公とは違う場所に属します。更に「1Q84」の続編で登場するであろう子どもの存在は、おそらく天吾に辛い事実を突き付けます。

仮に本作の完結編が世に出るとして、木元沙羅の子どもへのスタンスが明らかにされた時、それは解決できる範囲のものであって欲しいなと思います。作品の中にそれをどう組み込むかはもちろん作者次第ですが、個人的にはそろそろ物語の中に優しく加えて欲しい要素なので、何とか頑張って欲しいなと。ただ自分としては、本作よりは「1Q84」の続編に力を注いで欲しいのが正直なところでもあります。


長々と書いた上にまとまりに欠ける雑感ですが、この文章を読まれた方が、些細なものであれ本書の理解に役立つ何かを見いだして頂けたのであれば、書き手としてそれに勝る喜びはありません。たとえそうでなかったとしても、ここまで9000字を超える長文を読破して頂いた方に、心から感謝したいと思います。

以上、今日はこれにて。



■おまけ:昔に書いたもの
1Q84雑感
1Q84考察

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