亡き北杜夫さんの事

やはり最近、同じような事ばかりだなぁという気がしますが。。寂しいニュースを耳にして、何か書いておきたいと思う気持ちに突き動かされて、今日も駄文を残しておきます。一応、いつもよりは短めにまとめる予定ですが、どうなる事やら。という事で、本題。


今朝、北杜夫さんが亡くなられたというニュースを聞きました。84歳で、仲の良かった遠藤周作も辻邦生も埴谷雄高も既に1990年代に鬼籍に入っている事を思うと、寿命ではあるのでしょう。しかし、阿川弘之・なだいなだ両氏を始め、その逝去を痛切に受け止めるであろう方々を思うと、せめてもう少し…などと詮無き事を願う気持ちになったりもします。

自分が上記の面々の作品を読んでいた頃、それはまだ作者が健在で、新作の発表も期待できる頃の事でした。今後の新しい読者にとって、北杜夫は既に故人なのだなぁ…という奇妙な感覚は、何度体験してもなかなか慣れないものですね。


各新聞社の訃報を見ていると、まず「どくとるマンボウで有名な」という紹介があり、その次に「楡家の人びと」に言及するパターンがほとんどでした。もちろん妥当なところだと思いますし、実際に自分が人に一作だけお勧めするとしたらやっぱり「楡家~」を挙げると思いますが、個人的に一番思い入れがある作品となると・・・僅差で「船乗りクプクプの冒険」になるのかな、と思います。「ジバコ」なども懐かしいですし、この辺りから一作だけ選ぶというのは難しいものですね。。


「クプクプ」を読んだのは小学生の頃、まだ十代にも満たない頃でしたが、冒頭の数ページだけ書いて後は白紙という本を出すキタ・モリオ氏ってのは何だろうと思いながらクプクプを応援しているうちにどんどん読み進み、そこで疑問にぶつかりました。要するにメタ構造が理解できていなかったのですが、家の本棚にある「夜と霧の隅で」や「楡家~」を少しだけ読んでみて、これらの作品を書いているのが例のキタ・モリオ氏だとはとても思えず、大人たちに疑問をぶつけても納得できず(悩む理由が通じていなかった気がしますが)、しばらく考え込んでしまった記憶があります。

そしてこれ以降、物語においてメタ構造を直接的に打ち出した作品に遭遇した時には、「クプクプ」を思い出す事が多くなりました。例えば筒井康隆「虚人たち」を読みながら北杜夫さんを連想し、同時に安部公房「密会」を思い出しながら読む、といった感じで。作者が作中に登場したり、或いは登場人物が上位構造から作品世界に関わるような展開は漫画に多い気がしますし、最初にそれに遭遇していたら視覚的に理解しやすかったと思うのですが、お陰で「クプクプ」は自分にとって思い入れのある特別な作品になりました。


ところで、別作品の連想という話になると、どうしても北杜夫→トーマス・マンという話になります。個人的には、「魔の山」を読む前から北→マンという関係性が前提として刷り込まれていた事が逆効果だったのか、強く関連する箇所として記憶に残っている描写が少ないのが残念なところで。。「魔の山」と「楡家の人びと」を続けて読み返すのは勇気がいる事ですが、いずれちゃんと確かめたいものです。ちなみに、「魔の山」から一番に連想するのは何故か「ヨイトマケの唄」だったりして。。この曲を聴くと、「~ですよ、エンジニア。」とか言っているセテムブリーニさんの声が、聞こえてくる気がするのです。


だらだらと書いていたらキリが無いですが、最後に。訃報に接して故人の作品を振り返りながら、心より哀悼の意を表しつつ。そして、その作品を通して、自分の人生に確実に実りを与えてくれた故人に感謝の気持ちを述べつつ。今日はこれにて。

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タニヤマムセン、完全閉店

何だか最近、同じような話題ばかり書いている気もしますが。。京都の老舗家電店のタニヤマムセンが、先日16日の北山店の閉店をもって、全ての支店で営業を終了しました。既に寺町本店は今月2日に閉店済みで、程なくミドリ直営店としてオープンするとの事です

寺町が電気街だった頃の面影は既に失われて久しいですが、時間の問題と解っていた事でも、実際に来る時が来ると寂しいものですね。黒字経営のまま閉店できた事は、この残念なニュースの中で唯一の慰めになるのかもしれません。実際に四条から南に寺町通りを歩いてみると、20年前はもちろん10年前に比べても寂れたなぁ…という印象なので、仕方のない事だとは思うのですが。。


この一年ほどで、河原町界隈で自分にとって馴染みの深いお店が、次々に姿を消して行きました。河原町ビブレ(京都ロフト)、河原町阪急、ふたば書房河原町店、紀伊國屋書店MOVIX京都店、そしてタニヤマムセン全店舗などなど。。。そのたびに思う事は、2000年前後を境にこれらの業種が急激な下り坂に突入して、更には地域的にも河原町から烏丸へと京都の賑わいの中心地が移行した影響が大きかったのだろうな、と。今回のタニヤマムセンの場合は、直接的にはやはり京都駅前にビックカメラとヨドバシカメラが出現した事が響いたのでしょうね。


ざっと乱暴に四条河原町界隈の歴史を振り返ってみると、
昭和38年 地下線にて阪急の大宮→河原町延伸(ちなみに西院→大宮は昭和6年の延伸で、関西では最古の地下線)。
昭和44年 ふたば書房河原町店オープン(~平成23年)。
昭和51年 河原町に阪急百貨店オープン(~平成22年)。
昭和58年 河原町ビブレがオープン(~平成15年に京都ロフト誘致~平成22年)
昭和59年 阪急烏丸→河原町間の地下道が完成。
昭和62年 京阪の七条→三条が地下化。
昭和63年 ジュンク堂書店京都店オープン。
平成元年 地下線にて京阪の三条→出町柳延伸。
・・・といった時代が成長期だったのでしょう。

その後はバブル崩壊の影響もあって、
平成9年 京都市営地下鉄東西線の開通に伴い、紀伊國屋書店ゼスト御池店がオープン(~平成15年)。
平成12年 駸々堂の倒産(明治14年~)。
平成13年 中川無線がナカヌキヤにリニューアルするも奮わず(平成17年寺町店閉店)。
平成16年 ニノミヤPCXTown京都Mac館が閉店。
平成17年 ニノミヤ民事再生法申請と寺町店閉鎖(平成19年自主廃業)。
平成17年 丸善京都河原町店が閉店(明治40年~三条麩屋町、大正14年「檸檬」発表、昭和15年~河原町蛸薬師)。
平成17年 ソフマップ四条河原町店がオープン(~平成22年)。
平成17年 紀伊國屋書店MOVIX京都店がオープン(~平成23年)。
平成19年 ビックカメラ京都駅前店オープン。
平成21年 ジョーシンJ&P京都寺町店が閉店(昭和58年~)。
平成22年 ヨドバシカメラ京都店オープン。
平成23年 タニヤマムセン完全閉店。
・・・という斜陽の時代を迎え、現在に至ります。。


ついでに、世紀が変わる前後辺りの寺町通りを脳内で再現してみると、、、

四条から下がるとまず右手にはタニヤマムセンの本店があり、向かいにもタニヤマムセンのPC専門店があり。
タニヤマムセン本店の南側にはニノミヤムセン京都店があり家電を主に扱っていて。

綾小路を過ぎると右手にニノミヤのPCXTownがあり、特に一階の充実した書籍類が記憶に残っています。
更に向かい側にもニノミヤのMac館があり、MOやプリンタの購入でお世話になりました。
再び道路右手に目を向けると、すぐ南に中川無線があり。
仏光寺の手前辺り左手にはカメラのムツミ堂があり、各種メディアの購入でお世話になりました。

仏光寺を過ぎると電気街も終わりに近付きます。右手にドスパラや中川無線の二号店や今も健在の高橋電気があり。
そして最後に控えるのは、左手に見えるJ&P京都寺町店とその向かいのアップル館。いずれも、場所と部品の両方の意味で、困った時に最後に駆け込むお店でした。

正確な時期としては前後するお店もあると思いますし、触れなかったお店もたくさんありますが、自分がよく覚えているのはこの辺りです。


話をタニヤマムセンに戻すと、この界隈でも一番の老舗という事に加え、細々とした商品が割にお得というイメージがありました。また、特に寺町本店はオーディオに力を入れていたので、その点も個人的には気に入っていました。オーディオ機器の試聴という点でここに対抗できたのは、西院のジョーシン地下に入っていた河口無線ぐらいだったと思いますが、そちらも今はホビーショップ?になっているのが哀しいところ。大阪日本橋の河口無線本店は健在らしいので、何とか頑張って欲しいものです。

ちなみにハイエンド機器は今でも京都ヨドバシでそれなりに揃えられますが、あそこも当初の期待ほどの売り上げでは無さそうで、どうなる事やら。。平日夜の集客数などを考えると、閉店時間を考えた方が良いかもなぁ…とは無責任な部外者の感想ですが、レストラン街から苦情が出るでしょうし難しい判断になりそうです。ビックカメラも苦しい状況みたいですが、高望みをしなければ継続できそうな感じもします。まあ、寺町のここ五年ほどの集客数を考えると、京都駅界隈での心配事などは贅沢な悩み以外の何物でもないのですが。。。


寺町の電気街は自分にとって、今のように京都駅周辺や通販といった選択肢がなかった頃に、PCやMac関連で通った場所でした。梅田や難波に関東の量販店が進出する以前でも大阪日本橋まで一時間かけて出掛ける選択肢はありましたが、時間という理由の他に、電気街としてこぢんまりとまとまっている寺町界隈が気に入っていた事もあります。

とは言っても、PCパーツを買い漁ったりゲームにのめり込んだりという程ではなく、今になってもう少し深入りしていても良かったかな?と思ったりもしますが、他にもやりたい事が山のようにあった時代であり時期でもあったので、さわり程度の経験で終わってしまったのが少し残念でした。

幸いというか何というか、周りにやたらと詳しい友人が何人か居たお陰で耳年増とでも言うべき偏った知識を育む事はできましたが、そんな彼らがもしも読んでくれたとして、懐かしんでくれると良いなと思いながら書いたのが以上の文章です。できれば更に10年遡って、80年代後半から90年代前半辺りの話ももう少し詳しく書きたかったのですが、そちらはまたいつか、機会があればという事で。


あまり過去ばかりを向いて日々を暮らすのは気が滅入るし性に合わないのでグダグダと引き摺る事はしませんが、懐かしむべき時にはじんわりと過去を懐かしむ事も忘れず、その過去の延長としてのこれからを見据えながら過ごしたいものですね。などと一丁前の結論を出してみたところで、今日はこれにて。

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夢の話

久しぶりにハッキリとした夢を見たので、何となく書き残しておきます。


***

場面は、とある学校の正門の前。「ああ、そういえば卒業式か。」とか思っている。何故か辺りは不穏な雰囲気で、通りを歩いて来た同級生が学校の前にいた集団に囲まれて怪我をする。駆けつけた担任の先生と一緒に介抱して救急車に乗せる。その集団は、反戦という旗印の割には暴力行為も厭わない過激派で、そういえば自分は兵学校に通っていたんだ、とか思い出す。歳は十代後半ぐらいで、未来への期待とやる気はそれなりにあるものの、暗い影がつきまとう将来を案じる気持ちも強い。


卒業式の場面はなし。式の後、何人かで連れだって近くの同級生の家を訪れる場面。そこには家の人の他に近所の大人たちも大勢集まっていて、卒業を祝ってくれている。もはや言語不明瞭なじいちゃんが若かりし頃の武勇伝を語るのを、身振りから推測して相鎚を打つ。解釈を間違えたら多分こっぴどく叱られるだろう、針のむしろ状態。でも、卒業したという開放感で何とかなるだろうと思っている。向こうの方では、自分たちの飲み物にこっそりアルコールを混ぜようとしてばれて怒鳴られている同級生がいる。


そのまま同級生の家で深夜の場面。周りは同世代のみで、多くは雑魚寝。起きている少数もずいぶん酒が回っている。誰かが酒を上手い具合に調達したんだな、とか思っている。どのくらい飲まされたんだろう?


唐突に、明後日が結婚式だった事を思い出す。日付が変わったから、もう明日になる。今どき、式の当日に初めて会うなんて珍しいよな、とか思っている。深夜だけど一言連絡しておこうと、携帯メールを打つ。「不束者ですが末永く宜しくお願い云々。」

予想外に、すぐに返事が来る。「こちらこそ宜しく云々。」の後に、「ところで、覚えていますが?小学5年生の時…。」という暴露ネタが続き、「ああ、そうだったのか。」と少しびっくりする。「よくそんな知り合いを見付けてきたなぁ。」と思い、「姓が変わったのかな?それで苦労をしたのかな?」とか考えている。


突然けたたましいサイレンが鳴って、物思いは強制中断。「空襲警報だ!」と思う間もなく、周囲は閃光に包まれる。外に出るのは無謀と判断して、運を天に任せるしかないと結論付ける。しかし、家の中でも死傷者が少なからず出ている。「結婚式の前日に死ぬとはなぁ…。」と思ったところで、「そこまで運は悪くないはずだから、これは生き残る展開になりそうだ。」と考え直す。「重い障害が残らないと良いのだけど。」とか思っている。徐々に意識が遠のく。


暗い民家の一室。結婚相手との初夜。いつ何が起こるか分からない切迫感に駆られているのは自分だけで、相手は緊張こそしているものの切羽詰まった感じはない。しかし、緊急の事を考え、会話もそこそこに事に及ぶ。

事が終わり、目の前には本気で怒っているらしき女の子。ただ、言葉の深いところでは事前にはなかった親近感が感じられ、後に尾を引く事はなさそうだと思っている。自分でも始め方は強引だったと思うが、行為そのものは問題なく済ませられたらしい。自分がそれを人並みに行えそうな事に安堵する。そこまで考えて、「あ、障害は残らなかったんだっけ?」と思いながら、意識が徐々に戻り出す。


「ああ、走馬燈ってこんな感じか。」と思う。体はあまり自由に動かせない。時系列が変な事に気付き、記憶の先取りのようなものかと思っている。再びサイレン。「卒業したての若造を狙ってどうすんだ?」とか思っている。前線はどうなっているんだろう?と考えていると、また意識が遠のき始める。


気付いたらベッドの上。微妙に節々が痛いものの、大きな怪我は無さそうだと判断する。「そういえば昨夜、押し入れを本格的に片付けたからなぁ。」と思い出す。記憶の混同。「あれ、卒業式は?」・・・???

少し落ち着いて、久しぶりにリアリティのある夢を見たんだなと思う。二度寝したら続きが見られないかな、と考えたところで夢の中のサイレンを思い出し、もしやと思って時計を見るとスヌーズ二回目で、慌てて飛び起きる。現実世界への復帰。


***

そんな感じで、ここまでリアリティのある夢は珍しいので書き起こしてみましたが、最近ちょいと物語不足なのかもしれないなぁ…とか思いました。民家の下りなどは三島さんっぽいけど、夢の世界の空気というか、特に戦争との距離感は小川未明の「野ばら」っぽい感じです。書きながら、前世の記憶を残したまま別の世界に転生して…というタイプの作品などは、こうした夢を見た誰かが思い付いたパターンなんだろうなぁ、とか考えていました。

以上、他の人が読んでも面白みがあるのかないのか良く分からないので申し訳ないですが、今朝見た夢の話でした。
今日はこれにて。

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Steve Jobs逝く

今朝、ほぼリアルタイムでSteve Jobs死去のニュースを知りました。そして、今日は過去のApple製品の記憶を辿りながら、一日を静かに過ごしておりました。以下では、そんなあれこれを書き記して、Jobs追悼の代わりにしたいと思います。



■Apple製品を購入するまで:1980年代

1977年のApple IIか、1984年のMacintoshか。世代というよりは1980年代におけるコンピュータとの関わり方の違いによって、思い入れの機種は違って来るのでしょう。個人的には、「ゲームセンターあらし」の作者すがやみつるさんが漫画で紹介しておられた前者のイメージが強いですが、実際にApple製品を自分の家に導入するのはまだまだ先の話でした。


Jobsが自ら創業したAppleを追い出されたのは1985年。そして1980年代後半から1990年代初頭は、我が国ではNECのPC-9800シリーズが全盛期を迎えていました。ちなみに、ファミコンの普及に大いに貢献した大ヒット作「スーパーマリオブラザーズ」が1985年の作品になります。

80年代で個人的に思い入れがある機種といえば、まずはPC-9801VMです。カセットテープから数分かけて、しかも今からすれば微々たるデータ量を頑張って読み込んでいたような時代。そして5インチ2HDのフロッピーディスクが普及しつつあった頃です。もう一つはPC-9801RXで、CPUが12MHzという時代。MS-DOSは3.3ぐらいだったかな。

当時、もの凄くのめり込んでいる友人が少数、全く興味を持たない友人が多数という状況でしたが、自分は触ってみると楽しいという感じで。いくつかの単純なゲームや簡単なプログラム(例えば11から100までの素数を表示させるとか)で充分に幸せになれる、無邪気な時代でもありました。

PC-98シリーズが国内を席巻していた為、この時期にはApple製品は遠い存在で、特にJobsについては過去の栄光という扱いで定着していたような気もします。LOGiNという雑誌が当時ありましたが、コンピュータの歴史を振り返る際に、執筆者から懐かしげに語られていた存在という感じで。今では長所として語られている彼の拘りなどは、どちらかと言うと否定的に捉えられていた印象があります。



■Apple製品を購入するまで:1990年代

1990年代に入ると、EPSONの互換機(386辺り)などが記憶に残っていますが、徐々にPC-98による市場占有が衰え始め、そして1995年を迎えます。当時はWin95以前と以後が大きな区切りになると思っていましたが、今から振り返るとブロードバンド時代とそれ以前、あるいはインターネット時代とニフティサーブやPC-VANの時代といった幾つかの分かれ目が混在していた転換期の象徴の一つだったのだなと思います。

その頃のAppleはジリ貧状態で、1997年の夏にはついに、マイクロソフトからの資金提供を受け入れる事が発表されました。国内でも「ついにマイクロソフトの軍門に下った」というニュアンスで大きく報道されましたが、これがその前年末に復帰したJobsとAppleの今に至る発展の始まりになりました。


この時期は、個人的にはMac好きの友人が周りに増えていた頃でもあり、漢字TalkでHyperCardをいじくっていた事を懐かしく思い出します。そして、今から振り返ると何も解っていなかったに近い状態にもかかわらず、友人たちと一緒に上記の報道内容に疑問を呈し、これからAppleは伸びるだろうと断言して回っていたのでありました(実際には、再建ならずという未来も充分に有り得る状況だったわけで)。

そして、そんな自己暗示の成果もあってか、更には家でコンピュータを使う必要性と新しいOS8の洗練された様子に心を惹かれて、ついにPower Mac G3を購入しました。今でも単純な文章を書くには一番気楽なのがこの機種ですが、当時は10年以上に亘って使い続けるという未来は予想していませんでした。ただ、Apple II以来の同社への愛着から、微力でも再建の一助になれば良いなと、再建して欲しいなという気持ちで入手したのでした。ちなみにCPUは233MHzで、増設した32Mのメモリが13800円という時代でした。



■Apple製品を購入し続けた13年間

以後、Jobs主導のAppleが発売した製品を購入し続けて、今年で13年目になります。実際の所有者以上によく触っている製品まで含めると、iMac DV、iBook G4、iMac(Intel)、Mac Mini、iPod nano、iPod touch、iPad2などが記憶に残っています。

2001年、iPodとMac OS Xが発売された事は、個人的には手放しで喜べない部分もあります。前者は音楽に触れるまでの手間を大きく省いた一方で作品をより軽く扱う流れを促進させ、後者は多くの人が手軽に使える反面その内部構造を一般の人が把握するのは困難になりました。

しかし、それらを補って余りある長所が存在する事も確かです。そして、特に前者は彼らがやらなくても誰かがやる事になっていたのは間違いなく、その場合は今よりも悪い結果になっていた可能性があります。例えば仮に1980年代のJobsのような人物が手掛けていれば、確実に今より良くはならなかったでしょう。


Jobsという人について、偉大な発明家という語られ方をするのは、個人的には違和感があります。特に、無から新しい革新的な製品を産み出すという評価には、頷きがたいものがあります。彼の才能は既存のアイディアや製品が前提として存在しないと輝かないもので(あるいは、誰にもその輝きを理解できない別次元の作品しか作れないのかもしれず)、しかし、それらを組み合わせて顧客が使って楽しい製品を産み出すという点では、まさに天才という表現が適切な人だったなと思います。

その偉大な才能が、永遠にこの世から喪われたという事。そして、コンピュータの歴史を知るとびっきりの当事者が一人、世界からいなくなってしまった事。それらは、過去の四半世紀に亘る自分とコンピュータとの拙い体験を振り返らせるインパクトがあり、予期していた以上に訃報を寂しく受け止める事になった原因でもあるのでしょう。

長々と詮無き事を語って来ましたが、偉大な故人に対して心から、哀悼の意を表します。



■最後に、One More Thing

Jobs亡き後、もはやコンピュータや電話やゲーム機や音楽プレイヤなどといった境界が曖昧になる一方の流れの中で、これら情報機器は未来においてどのような形に進化するのか?もしも遠い未来にあの世でJobsに会えたなら、その素晴しさを存分に語ってあげられるのかもしれません。

しかしながら、清志郎があの世にロックを布教しに行ったように、Jobsが他界で何もしないでじっとしているわけはありません。あの世で更なる洗練と革新的なデバイスに挑むJobsに対して、残された我々が将来悔しがる事のないように、Appleにはこれからも魅力的で作り手の意図を強く感じる製品を作り続けて欲しいものです。

長々と書きましたが、以上の文章を、僭越ながら亡きJobsに捧げたいと思います。


R.I.P. Steve Jobs.





スティーブ・ジョブズ死去・著名人の追悼コメント


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