作品(BlogPet)

きょうJFKがBKOは主演したかった。
それでBKOとリストへレビューしたかもー。
それでBKOはBKOは作品名っぽい定義したいです。

*このエントリは、ブログペットの「JFK」が書きました。

風博士、夢野久作、江戸川乱歩

寝ようかと思っていたのですが、ちょいと戯言っぽい事を書いておきます。


相変わらず、少しずつ安吾を読んでいるのですが、「風博士」を読みながら。ふと夢野久作を連想しました。それは、作品から漂う時代の臭いというか、特定の場面ではなくその場の空気というか。それがどこかで感じたものと似通っている気がして、思い付いたのが夢野久作だったのです。

具体的には、最初は「ドグラ・マグラ」かと思ったのですが、タイトルは思い出せないものの短編のどれかの方がより近いような。。作品名を調べても良いのですが、見ればすぐに分かると思うので、再読の時の楽しみに取っておこうかと。

思い出せない作品は、「風博士」や「ドグラ・マグラ」と比べると遥かに映像化しやすい印象ですが、明らかに今と違うのは「戦前」という点だけではなくて。何かしらの怪奇的な要素がぷんぷんしている辺りでしょうか。あと、作品の発表年は分かりませんが、かなり年代を特定できそうな気がしたのでした。

例えば、乱歩と比べると、これらの作品は10年ぐらい後のイメージというか。もちろん乱歩は戦後にも作品を発表していますが、自分がよく読んだ作品は大正の雰囲気が何かしら残っているイメージで。それに比べると、安吾や夢野久作は、明確に昭和に属するんだなぁ、といった感じで。


ちょっと説明しにくいというか、どうも最近オカルトっぽい話が多いのが自分でも気になってはいるのですが、作品から肌で感じた印象を書こうとすると、どうしてもこんな感じになってしまうのが困ったところです。人に積極的には読ませられない記事が増えるというか・・・難しいですね。

言いたい事は、安吾と夢野久作の作品に何らかの繋がりがあるとかないとかではなくて。彼らは、この時代の人間なのだなぁ、という実感というか。それを強く感じて、何となく記録しておきたかったのでエントリーにしてみました。より具体的な感想を求めて来られた方には申し訳ないですが、そんな感じで今日はこれにて。

読んで頂いてありがとうございました。


テーマ : 読んだ本。 - ジャンル : 本・雑誌

解釈(BlogPet)

JFKが解釈したよ♪
でも、哀願された。

*このエントリは、ブログペットの「JFK」が書きました。

岩波の安吾

もう10日ほど前になりますが、連休中に読み返した本の中に坂口安吾の「堕落論」(角川文庫)がありました。川端を読んで安吾を読んで、一体いつの時代の人だと言われそうな思考状態に陥っていたのでありますが(笑)、ごく簡単に安吾について。


自分が最初に読んだのは確か河出書房の文庫で「日本論」というタイトルでした。少し調べてみると1989年初版との事で、残念ながら収録作品のリストなどは見付かりませんでしたが、堕落論や日本文化私観などが収められていたと思います。多分今でも実家のどこかにあるのでしょう。で、大学時代に購入したのが角川文庫。今回読んだのはこれです。

再読の理由は「偶然見付けたから」ぐらいの軽い理由だったと思いますが、やはり面白くて一気に読んでしまい、色々と考え事をしていました。安吾が漱石について「肉体がない」という指摘をしていますが、そこに村上春樹さんの作品を加えて考えを進めてみたり。安吾の言葉の選択について追求してみたり。この辺りの事は、気が向いたら詳しく書くかもしれません。


んで、検索をしていたら、昨年の秋頃に岩波から「堕落論・日本文化私観」「桜の森の満開の下・白痴」「風と光と二十の私と・いずこへ  他16篇」が出ているみたいで。発見した翌日にいそいそと本屋で買い求め、毎日一つずつゆっくり読んでます。

今のところ「桜の森の満開の下」「女体」「恋をしに行く」を読了。最後は「夜長姫と耳男」にしようとか、土日は「青鬼の褌を洗う女」と「白痴」かなぁ?とか、無邪気に楽しんでおります(笑)。


あと、ちょっと愚痴。検索で出て来たレビューを少し読んで思ったのですが、「堕落」という言葉に引きずられている方が多いのかなぁ、と。「堕落論」の中で、安吾はかなり慎重に念を押して定義をした上で「堕落」という言葉を使っているわけで。別の作品では何の留保も無しに堕落と言っている箇所がありましたが、それは辞書通りの意味で問題ない文脈でした。「堕落論」を語義の通りに受け取ったら、作者の意図が全然解らないでしょうに。。。

たまたま選んだのが酷いものばかりだったのだと思いたいですが、初歩的な読解ミスを犯しながら「面白くない」なんて、ちょっとな~・・・と、少し悲しい思いをしていたり。というか、発想としては堕落論って悪人正機に近い感じですね。梅原先生の「歎異抄」も読みたいなぁ、っと。


そんな感じで、油断するとすぐ長くなってしまうので(苦笑)、今日はこの辺で。
読んで頂いてありがとうございました。


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風雲児たち

今更ですが、正月に読んでいた漫画を記録程度に記しておきます。みなもと太郎さんの「風雲児たち」(リイド社)ワイド版1~20巻&幕末編1~13巻を読みました。あと、14巻が年末に出ていたみたいで、新年明けてからそれも読みましたが。。


何巻だったか、ワイド版に付いている帯に書いてあった絶賛の文句が自分の印象そのままだったのですが、とにかく歴史が好きでギャグが好きで漫画が好きだという作者の気持ちが伝わって来るようで、とても楽しく読めました。幕末編もギャグ注があったら良いのに・・・。

今までにも色んなところでお奨めの声を聴いてはいたのですが、巡り合わせが良くなかったのか機会を逃し続け、やっと購入したものです。¥680×20+¥550×14=¥21,300なんて計算をすると興醒めですが、それだけの価値があると言い切れる作品になっていると思います。

完結するのがいつになるのやら分かりませんが、幕末を過ぎてもそのまま書き続けて欲しいような、編集者の意向で駆け足で通り過ぎてしまった人物たちをちゃんと書いて欲しいような。。そんな感じで希望は尽きませんが、毎年2回の新刊を楽しみにしておりますです、作者さま。


んで、司馬遼太郎作品のいくつかを読み返したい今日この頃なのですが、急ぎではないので少し落ち着いてから徐々に読もうかな、っと。↓リストを作るだけでも楽しかったり(笑)。

・花神:大村益次郎
・菜の花の沖:高田屋嘉兵衛
・世に棲む日日:吉田松陰&高杉晋作
・峠:河井継之助
・胡蝶の夢:松本良順&司馬凌海
・北斗の人:千葉周作


最近どうも書き出したら長くなるので、たまには簡単にこんな感じで。
以上、読んで頂いてありがとうございました。
今日はこれにて。


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或る日常

 雨が降りそうだと思いながら、書店に入った。予定外にゆっくりしてしまい、出て来たら路面が濡れている。にわか雨だったのだろうか。庇から垂れる水滴を避けるため、地下に入る。

 再び出た地上は、雨だった。本の入った紙袋を鞄に仕舞い、入れ替わりに折りたたみを出す。頭上で時折、鈍い音がする。みぞれ交じりの雨。時期外れの歌を、ふと思い出した。

All alone I watched the quiet rain.
Wonder if it's gonna snow again, Oh~...



 英語なのは「クリスマス・イブ」をとうに過ぎたせいか。ご本人が歌っていたもので、しかし続きは思い出せない。日本語のほうが余情がある。


 ビーチ・ボーイズをJ-Popに組み込んだ功労者の一人は、山下達郎だろう。彼自身の曲はもちろん、竹内まりや、桑田佳祐への直接の影響も大きい。らしい。夫婦なのは知っているが、交流の詳細までは知らない。

 「忘れられたBig Wave」を習作に、主にクリスマス曲で桑田流の解釈が聴ける。「あなただけを~Summer Heartbreak」という夏の歌もある。ドラマの主題歌で、主演は福山雅治だったか。ラストの回のサブタイトルがこれで、日本語から「幸せな結末」を、英語からは逆を想像して、放送前に悶えていたドラマ好きがいた。どうでもいい記憶だけは自信がある。

 大瀧詠一のシングルは、宣伝文句が「初のCD作品」だったか。これもドラマの主題歌。主演は忘れたが、曲だけは覚えている。転調に全てがある、と思っていたらラストの繰り返しを見逃してしまう。幽霊の怖さは、海外でどう理解されているのだろうか。


 目に付いたトンカツ屋に入る。飯、汁、キャベツがおかわり自由とは何とも太っ腹だが、あいにく我が腹回りがそれを許さぬ。カツを二切れごとに茶碗を持ち上げていたのは遠い昔。かろうじて変わらぬのは、キャベツの消費量のみである。

 頻繁に頼むのはお互いかなわぬので、追加の際にはカツを避難させ皿を広く開ける。まったく、何を食べに来たのか分からぬ。定食のヒレカツと単品の牡蠣フライ。勘定を払って自覚を新たにする。


 ホテルの部屋で、タオルでコートの雨粒を拭きながら、ビールを頼まなかった事を後悔した。


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天才と秀才

ちょいと追加で、天才と秀才についての私見を。


イメージとしては、先の見えない曲がりくねった道を進むとして、
・秀才は、道に沿って進んでいく。
・天才は、道なき道をショートカットできる。
・凡才は、道に迷う。路上で迷うタイプと、道を外れて迷うタイプがある。

どちらが良いのかは分かりません。秀才の方が遥か先に到達できる場合も多々ありますし、天才しか到達できないであろう頂、みたいなものもありそうですし。。そもそも、凡才でダメだとは言い切れない気もするわけで、本人がそれを楽しみ堪能するのであれば何の問題もない気もします。


それから、何故か一般に、天才は楽をして道を行けるという類の誤解がありますが、才の違いだけでは決まらないのが人生というか。才能とは別に後天的に獲得できる要素があって、その代表例が努力になるのでしょうか。「努力のための努力」を求める向きが多い気がしてあまり好きではない言葉ですが、苦行と努力は似て非なるものと思うわけで(時に重なる事もあるとは思いますが)。コツコツと積み上げて行く姿勢というか行為を、ここでは努力と定義しておきます。

で。努力できる天才は、同じ道をショートカットするにも短時間で越えられる。しかし、掛けた時間や距離の短さで苦楽を論じるのは違う気がすると思うわけで。また、才能だけを頼りに、同じ場所を更に短期間で越えられる人もいるのでしょうが、一生を通じてそれが通じるほど甘くはないとも思うわけで。ただ、そうした群を抜く天才を目の当たりにしたいという捨てがたい気持ちも、一方ではあります。いわゆる名人とか名選手などに「ありえないプレイ」を期待してしまうのは、そうした心境の顕れなのかもしれません。


と、そんな感じで天才と秀才についての補足でありました。
以上、読んで頂いてありがとうございました。


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眠れる美女

今日は、連休中に読んだ本の中から、川端康成「眠れる美女」(新潮文庫)について。

大晦日に三島事件について書いて以来、読み返したいと思っていた本書ですが、それは巻末の解説を三島さんが書いている事と、それ以上に本作を川端さんの代表作の一つだと勝手に考えているからであります。ちょっとアマゾンでレビューを流し読みした感じでは、最近の版でも解説は変わっていないみたいで一安心(レビューについては後述)。

さて。表題作と、それに対する三島さんの解説とで、川端さんと三島さんの違いが如実に表れていたと記憶していたのですが、再読でそれを確認できた気がしました。一言で済ませば天才と秀才の違い、という事になるのでしょうが、それについて少し詳しく書いてみたいと思います。


解説の中で三島さんが提示している「愛」や「悪」、更には「死」「性慾(欲)」についても、それらは規定されたもので、何かしらの対立概念が透けて見えます。更には前半部分で「半端物」を批判している姿勢も併せて考えると、もとの作品との乖離を、個人的には覚えてしまうのです。

三島さんが挙げる諸要素が「眠れる美女」の魅力の要因になっているのは確かでしょうが、そもそも、それらが混沌として存在しかつ破綻していない事をより重視したいというか。説明書きにすると難しくなってしまいますが、要は、川端さんの思考において諸々の概念は境界があやふやで、通常考えられる対立概念をも内包して同時に存在している印象で。具体的に言えば、「死」と「生」の区別を付けず、かつそこには「悪」も「老い」も「性」もある、というような感じを受けてしまいます。

乱暴な事を言えば、境界を簡単に越えてしまう川端さんと、越えられはしないものの境界内を整備し徐々に境界を外に広げていく三島さんの違い、みたいなものがあるのかもしれません。個人的な好みは川端さんですが、ただ、優劣を論じるべきではないとも思っています。川端さんの曖昧さは確かに中途半端に流され易いし、三島さんの場合は超えられない壁を招き易い。しかもこれは各々の型とでも言うべきものなので、簡単に変更できるものでもなく。難しい仕事に一生を掛けた両氏には頭が下がる思いであります。


で、アマゾンのレビューについてですが、解説の影響が強すぎると思ったのが一点。三島さんはあくまで理解し易い枠組みを提示しただけで、より深く充実した印象を持っていたのは間違いないでしょうに、これが全てという理解で済ましている方が多い気がするな、と。書かれていない部分も考慮に入れている印象をあまり受けなかったのが残念でした。

もう一点は、この作品の主題に対する誤解というか。性に執着する老人の醜さ、だけでは不十分な気がするのであります。といいつつ、最初に読んだ時は自分も嫌悪感を抱いたものでしたが。。。そうした解釈への不満や書き方の問題を考えると、未読者に一番親切なレビューは英語で書かれたものだったような。。同じ人でも英語と日本語では前者の方が論理的な文章が書ける、なんて話がありますが、これもそんな感じなのでしょうか?ま、それは蛇足なのでさておいて。


自分が今回感じたのは、この作品で川端さんは確かに老人の性への執着を書いていますが、その根底には回春の思いの他に、成熟した女性を避ける惨めな気持ち、充実していたと自負できるだけの過去の経験などがあり、かつ絶対者の立場にはない事も重要ではないかと思ったのでした。三島さんが書く、眠る少女という対象が与える安心感を、老人たちは一夜を通しては持ち得なかったと思えてならないのです。ゆえに、執着についても自分一人に止まっていないというか。身勝手な執着ではなく哀願に近い執着というか。

上手く説明し切れないのが残念ですが、醜いと切り捨てるだけでは表面的にしか味わえない印象で、この老人の行動なり感情の起伏なりについても、書かれている事だけを鵜呑みにするのは危険で、その根底にあるカオスに迫らないと味わえないものを感じるというか。相当の深さを感じてしまい、読後にはすっかり疲れてしまったのでした。


そもそも、老人と少女という組み合わせは、それなりに健全、というと語弊がありそうですが、どことなく納得できる要素があるような。少女相手=ロリコン、と切り捨てるのは、老人の場合はまた少し違うのではないかな、と。秀吉は未熟な年齢の少女を愛し、未亡人好きの家康も晩年は少女を同衾させた、なんて話がありますが、それは権力者だからできた事、だけではなくて。この作品においてもメンバーは世間的に成功を収めた人々らしき記述がありましたが、金があるからできる、だけでは恐らく不十分で。何かしら近しい人生の過ごし方をした方々が、老齢において希望しやすい共通の思いなのではないかと。

古代ローマの二代目皇帝ティベリウスは、幼い少年達と遊楽に耽った、なんてゴシップを流されましたが、これも(仮に事実だとしても)噂にあるような風呂場で云々といった生々しいものではなくて、姿を眺めるだけとか傍に居るだけとか、青年期の人々からすれば全く物足りないような行為に止まっていたのではないかな、とか。つまり、性的に激しいと一般に思われるような行為までは求めていないという点で、彼らは共通していたのではないかと思ったのです(ただ、エロスという点では、より深いものがありそうですが)。言ってみれば、子供向けの作品にこだわる映画監督の心境などに近いのかもしれません。

そして、思春期を迎えた女の子が父親の中年臭を嫌って云々という話がありますが、女においてはその前段階、男はその後の段階に至る事で、逆に奇妙なバランスが取れてしまうのではないかな?などと、妄想を逞しくしつつ読了したのでありました。どうにも上手く説明し切れませんが、できればまた十数年後に読んでみたいものであります。



で、話ついでにWikipedia↓。

ノーベル賞受賞後発表した作品は、未完となった「たんぽぽ」のほかには、短編が数作品あるだけであり、ノーベル賞の受賞が重圧になったといわれる。以前より睡眠薬を常用していた。遺書はなかったが、理由として交遊の深かった三島の割腹自殺、老いへの恐怖などによる強度の精神的動揺があげられる。
川端康成 - Wikipedia



この辺りが、wikipedia、というか匿名の限界という気がします。自殺ではない、のであれば話は別ですが、自らの選択であると仮定した場合、どうにも腑に落ちないというか。個人的には結果から下世話な演繹を働かせただけの説明、という印象を受けるのですが。ただ、これは自分が感じる事だから表明できるものの、一般化できる評価かと言われると難しいです。自分が編集するとしても、似たり寄ったりの表現にしかならないのでしょうね。という事で、以下は話半分で聞き流して下さいませ。


自分が知っているのは主に作品を通した川端像ですが、重圧になったのは受賞ではなく、受賞者としての公的な生活だったのではないかと。遺書については、確か芥川のそれを生前批判していた気がするので、そちらを参照すべきかな、と。精神的に変わった部分があるのは間違いない事だと思いますが、動揺ではないだろうし、老いについても恐怖ではないような。唾棄すべきもの、ぐらいの感覚だったのかな、と。哀惜という気持ちはあったと思いますが、谷崎ほど強くはなさそうですし。。三島事件の影響は確実だと思いますが、この文脈で推察されるようなものとは少し違う感じがします。


こんな事を公の場で書いて良いのか分かりませんが、氏にとって生死は断絶ではなく連続で、着物を脱ぎ捨てるぐらいの感覚で精神が肉体を後にしたというか。戻れないという自覚はあったでしょうし、それに起因した葛藤もあったと思いますが、それは一般の想像とは少し違うような印象を持っています。

三島さんの場合はもう少し理解し易い葛藤で、彼は丹念に物事を積み重ねる事でそこに至り、個の再生の手段と思い込めて初めて事に及べた。以前に書いたように、その再生は公のものではない、のは案外重要だと勝手に考えています。やはり、秀才と天才の違いというか。


ともかく、自死はもちろん推奨されるべきものではありませんが、仮に批判するにしても、彼らの思惟の重みに最低限応えられる程度の批判を望みたいものであります。故に、自分はこれからも考え続けるつもりですが、連休中に「豊饒の海」を捜索できなかったのが残念だったなぁ・・・と軽い調子に戻ったところで、今日はこの辺で。


長々と語りましたが、読んで頂いてありがとうございました。


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お話(BlogPet)

きょう、BKOとお話するはずだったみたい。

*このエントリは、ブログペットの「JFK」が書きました。

強欲資本主義とgeneralist考

読むばかりで全く記録しないのも寂しいので、今日は神谷秀樹さんの「強欲資本主義 ウォール街の自爆」(文春新書)を読んだ雑感というか与太話を。


作品については、それなり、という印象。五段階評価では☆二つくらい。著者自身の体験談は面白かったものの、それ以上の事については消化不良という感じでした。

特に、最終章は「バブル崩壊にいかに立ち向かうか」というタイトルでしたが、要は「国家の品格」的なものを書きたかったのだな、という。専門から一般に話を広げようとした結果、浅いもので終わってしまうという、この種の作品の典型パターンに落ち着いた感じだったのが残念でした。


思うのは、やはりgeneralistはspecialistと同じくらいなるのが難しいという事。にもかかわらず、殆どの人が自身の発言を過大評価して疑問を持たないのは、良い模範が見当たらないから、なのかもしれません。

昨今は多くの事柄が細分化・専門化した結果、複数の分野にわたって究める事が難しくなっているのは確かです。が、generalistは個々の分野を究めた先に至るものではないと思うわけで。ある分野に関わったからにはある程度まで究めないと、と考えてしまう傾向は我が国に強いのかもしれませんが、それでは一人の人間がspecialist二人分の役割を担っているだけ、でしかないような。。


いわゆる文化人がgeneralist的に一般論を語る時に、たまたま議題が自分の専門分野で、粗が見えて信用が下がる、という場面があります。おそらく、これはspecialistたるべしという姿勢を問題にすべきで、特定の専門知識の欠如を問題にしたら(=その分野でもspecialistである事を求めるならば)、それは解けない問題を提示する事にしかならない気がします。

specialistが専門について詳しく語れる人だとすれば、generalistに必要なのは、その内容を評価できる事、になるのか。自分の認識はせいぜいこの程度ですが、specialistと補完し合えるgeneralistをより多く育成する事を、真剣に議論した方が良いのかも・・・などと偉そうな事を思っていたのでした。


話を作品に戻して。専門分野については、作者の経験を活かしてより踏み込んだ意見を。最終章についても、作者の海外生活の経験などはもっと活用できたはずで、そうした切り口から日本のこれからを模索して欲しかったな、と。仮にそれが浅い内容に終わったとしても、深く考えた結果ではない事が確実な文言より、断然良かったのではないかと。そんな事を考えた作品でありました。


人の批評をするだけの輩よりも、曲がりなりにも作品を上梓した人こそ評価されるべきであります。それは自覚しているつもりでありますが、自分が感じた問題を提示しておく事で、些細でも良い方向に結び付く事を願って。今年も色々な雑感を書き記して行こうと思っておりますので、宜しくお願い致します。


以上、今日はこれにて。
読んで頂いてありがとうございました。



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