Twitterと流行と

気付けば一ヶ月以上放置していたので、軽い話を一つ。

最近はTwitterを読む時間もなかなか取れないのですが、Twitterを使った情報収集に問題に感じて足が遠のいている部分もあります。ちなみに呟くほうは、かなり縁遠くなって久しいです。

で、その問題点なのですが。出版関連のアカウントを例に説明しようと思います。


出版不況の昨今、出版社や作家さんが作品のことを何度も呟いて宣伝するのは、気持ち的には応援したいところです。

しかし同じ作品のことばかりを何度も呟かれたり、その作品についての誰かの呟きを余さずリツイートされると、こちらの感覚が狂ってくる気がするんですね。

その作品がもの凄く大ヒットしているように思えて来て、その結果、世間の認識と自分の認識に狂いが出るというか。数ヶ月程度なら問題ないのですが、年単位になるとズレが酷くなって困る気がすると言いますか。

Twitterは自分でフォローするアカウントを選べますが、よくよく考えるとテレビのチャンネルを選ぶのと同程度の受け身のメディアなわけで。

それよりも、各出版社のホムペで月ごとの新刊をチェックしたり、実際に書店に足を運んで本が並んでいる様子をざっと見て回ることで流行を確認する方が、世間一般の認識に近い受け止め方ができるのではないかなと。

そんな感じで、古典的な行動に回帰しそうになっている今日この頃なのでした。


以上、今日はこれにて。

ミス。

昨日の夜には覚えていたのに、サッカー見たり色々としながら「何かを忘れているような」と引っかかるものがありつつも、更新する必要がある事を思い出せず。

とりあえずサッカー日本代表、ワールドカップ六大会連続出場おめでとうございます!

以上、今日はこれにて。

日野原先生のこと。

故人にどのような敬称をつけて呼べば良いのか毎回のように悩むのですが、直接教えを受けたわけではないとはいえ「先生」がやはり相応しいと思うので、以下では日野原先生とお呼びさせて頂きます。


さて、既に一昨日になりますが日野原先生が105歳で亡くなられたとの事。お歳を思えば不思議ではないとはいえ、もう少しだけでもという気持ちが込み上げてくるのを避けることはできませんでした。

それと同時に湧き上がってくる思いや感情、そして過去の記憶があり、それらを以下で書き記しておこうと思います。私の印象に残っている先生のエピソードを2つ、そして私の親の話と私の話になります。

日野原先生のお人柄や長い人生については、語るに相応しい方々が大勢おられると思いますので、ここで語るのは間接的に先生から影響を受けた者による手前勝手な内容であることをご了承下さい。


■日野原先生のエピソードその1

昭和26年(1951年)9月、サンフランシスコにて平和条約が締結されたまさにその月その場所で、ひとりの日本人医師が結核の再検査を求められていました。もしも検査に引っかかってしまうと、彼は到着早々に留学を諦めて故国へと送還される事になります。

指摘された結核らしき病巣を「治療済み」と強弁して乗り切ったその医師は、1年間の留学を無事に終えて帰国しました。その後20年にわたって聖路加国際病院で勤務して、昭和49年(1974年)に定年退職。しかし彼の人生はまだ、折り返し点を過ぎたばかりでした。


この後に述べる2つめのエピソードといい、つくづく歴史上の重大事件に縁のある方だなと思ったものですが、再検査を言い渡されてから事を収めるまでの期間に先生がどのような心境だったのか、考えさせられました。

おそらく世間的にはあまり知られていない話だと思いますが、私にとっては人生の節目というテーマで何度も物思いに耽る原因となったエピソードです。


■日野原先生のエピソードその2

昭和45年(1970年)に起きたよど号ハイジャック事件に巻き込まれた事、その際に「カラマーゾフの兄弟」を再読された事は、割に知られた話だと思います。

無事に解放されたと知っている我々と当事者だった先生とでは、その行為をどう受け止めるのか、そこにどんな意味を与えるのか、自ずと違ってくると思うのですが、私は以下のように受け取りました。

つまり、自分にとっての特別な作品とはどういう事か。それを再読する事でどのような意味が生まれるのか。そして他者はそれをどう理解すべきなのか。

最後の点について言えば、ハイジャック時に先生がゾシマ長老の話をどう読んだのか。それを考える事が、この事件に先生が巻き込まれた意味(あくまでも私にとっての、ですが)ではないかと思って、断続的に考え続けています。


■親がお世話になった話

先生にとっては大勢のうちの1人だったとは思いますが、ほんの短時間の会話が、その後の長きに亘って私の親にとっての心の支えになっていました。

その言葉はごくありふれたもので、だから発言の内容は重要ではありませんでした。その言葉を日野原先生が言って下さったという事、更にはその言葉を口に出す前に、先生が私の親の話を(親曰く)興味深く楽しそうに聴いて下さったという事。それらがあってこその言葉なのだろうと思います。

先生が亡くなられても私の親が生き続ける限り、そしてその話を伝えられた私が生きている限り、その言葉は意味を失わず生き続ける事になると思います。


■私の話

一応は講演を拝聴した事もあり、ほんの少しだけお話をさせて頂いた事もありますが、そうした事はお弟子さんなりが語ってくれると思うので、ここでは全く別の少し変わった話をしようと思います。

確か90年代も後半に入った頃、データ入力の作業を引き受けた事がありました。何かの会員名簿だったと思うのですが、その中には日野原先生のお名前もありました。

入力すべきデータは住所や連絡先を始め色々な個人情報が含まれていて、しかし当時はデータの扱いに対して何の注意もなければ、外部に持ち出して入力する事も咎められないような、そんな時代でした。

もしかすると、名簿に名を連ねていた方々は著名人ばかりだったので、敢えて秘匿せずとも知りたい人には知られている(だから情報流出を心配する必要はない)という事だったのかもしれませんが、今となっては真相は分かりません。ネットがそれほど発達してない時代の事です。

さて、データには各々の出身大学も含まれていました。当時ですら既に戦後50年を迎えていただけに、ほとんどは「昭和××年○○大学卒」だったのですが、そんな中で「昭和12年京都帝国大学卒」という文字列は、異彩を放って見えました。朧気な記憶によると、帝大卒は日野原先生以外にはお一方だけだったと思います。


日野原先生は明治44年のお生まれですが、私は子供の頃に明治終盤の生まれの方々によく可愛がって頂いたものでした。そして大学に入る頃には、昭和初めの生まれの方々に特にお世話になったように思います。

後者の方々、すなわち昭和20年代に大学を卒業した世代の方々にとって、「帝大卒ではない」という事には特別な意味がありました。もちろん人によって思い入れは異なるとはいえ、そこに何らかの使命感を見出した方々が多かったのではないかと思いますし、少なくとも私がよく話を聞いたのはそうした方々でした。


私は日野原先生のお名前を聞くと、この時に受け取った数枚の紙を思い出します。入力すべき内容がまとめられた手書きの用紙、その中にあった出身大学のデータ、帝大卒という文字列、そしてそこに特別な意味を見出した方々の事を思い出してしまいます。

戦後の復興が急速に進んで、既に昭和40年代には忘れられつつあった感覚なのでことさら表に出す事はしないという話でしたが、上記の通り昭和20年代に大学を卒業した方々は「帝大卒ではない」事を背負い続けて、そして日野原先生たちは「帝大卒の最後の世代」という自覚を持ち続けて、過ごしておられたように思います。

今は世の中が変わって、世界との距離も大学の存在意義も様変わりしてしまったので、こうした使命感は時代にそぐわないように思います。集団としての使命感よりも、個人の中にある興味をどう引き延ばしていくかを重視した教育が、現代には相応しいのだろうと思います。

しかし、敗戦によって分断された2つの世代があって、個人ではどうしようもない環境の変化を自分たちの世代が引き受けるべき事柄だと受け止めて、それを抱えながら人生を送った方々がおられた事だけは、できれば若い世代にも知っていて欲しいなと思います。

こうした変な使命感なぞ受け継がなくても良いとは、先達にも言われた上に私自身も全く同感なのですが、時代を反映する特定の世代がどのような思いでその後の人生を過ごしたのかを知る事は、人生を振り返る年齢に至った時に確かな一助になるはずです。少なくとも私にとってはそうでした。


日野原先生と直接的には関係のない話ですが、私にとって日野原先生の死は「帝大卒の最後の世代がこの世を去った」という意味合いも大きいので、以上のような話を書いてみました。


■終わりに

ここまで書いて来て改めて思うのは、私にとって日野原先生とは、主に2つの事を考えさせられた大切な先達でした。すなわち、いかに生きるべきか。そしてどのように下の世代に引き継ぐべきか。

これからも生きている限りこの2つを考え続ける事で、故人の恩に報いることができればと思っています。

R.I.P.

ブログを始めて10年。

最近は記事を書く頻度がめっきり減ってしまいましたが、今月でブログを書き始めて10年になりました。

だいたい2010年代に入ってからだったと思いますが、書きたいテーマをどこまで書くか、あるいはどこをどう切り取るのかという部分を悩むようになり、それが今も「書きたいのに書けない」理由の最たるものになっている気がします。

書きたいと思う事柄には、まず書く以前に知りたいという気持ちが働いて、その時点で(文字通り)深みに嵌まってしまうと、書く為の整理が追いつかなくなります。

2000年代までの私はおおよそ2年周期で、知る内容を拡充すること重視→それを書いてまとめること重視という繰り返しによって、書き物の質を高めようとしてきました。

しかし2009年を最後に、2010年からはその周期が崩壊して、知ることに偏重したまま今に至っている気がします。(蛇足ですが、こうした実感ゆえに、私は2008年や2010年以降に書いたものよりも、2007年や2009年に書いたもののほうが読みやすいのではないかと考えています。)

その原因は「この先」を考えてしまったからで、「死ぬまでにどれほど知ることができるのだろうか」という思いに取り憑かれてアウトプットよりもインプットに駆られる気持ちが強くなった結果ではないかと自分では考えています。

実はこうした気持ちは最近少し落ち着いて来て、「いつ死ぬかも判らないし、なるようにしかならない」と考え始めていますが、他方では時間ややる気の確保が少しずつ難しくなって来ました。数年後にはこちらの問題が更新の一番の妨げになるであろう予感がしています。

そんな感じで我ながら今後も更新頻度は疑問ですが、元気でいる限りは細々とでも続ける意欲はありますので、今後とも宜しくお願い致します。


では今月はこれにて。

5月も終わり。

年々まとまった時間が取れなくなって来ているわけですが、月一の更新すら出来ないのでは単なる言い訳ですね。
何だかんだでブログを始めて10年なので、来月はちゃんと何か書きたいところですが。。

以上、今月はこれにて。

年度末はつらい。

できれば今月中にと思っていましたが、来月上旬に某ベストセラーについての雑感を書く予定です。
以上、今月はこれにて。

2月も終わる。

やはり書く習慣が一度途絶えてしまうと、なかなか定期的に書くのが難しくなりますね。
文字数は少しずつでも毎日定期的に書くようにしないと、状況は改善しないと分かってはいるのですが、難しいものです。
来月は何か書けると良いなぁ。。

では今月はこれにて。

1月が過ぎる。

遂に2017年ですが、このブログは相変わらずの更新頻度になりそうです。

一応はネタ的な軽いものを書く予定だったのですが、どうにも真面目な文章ばかり書いているからか、書いていても軽妙な感じが出ないんですよね。たまには馬鹿っぽい記事を書きたいところですが、困ったものです。

とりあえず今日のところは生存報告に代えて、という感じで。
ではまた来月。

大晦日。

いよいよ大晦日ですね。

今年は時間のやり繰りが難しくなった年で、色んなことが少しずつ後回しになった結果、幾つかのことを諦めるという展開が多かったように思います。

本なども読む量が減ってお恥ずかしい話ですが、自分が知りたい・楽しみたい作品は例年通りとしても、他者と情報を共有したい・話し合いたいと思うような作品を読む機会が減ったように思います。

それは世の流行りが本格的に解らないという悲しい事情も大きいと思いますが、書籍にしろ音楽にしろそれらの存在感が年々失われていって、軽い話題以上のやり取りを共有できるような作品が少なくなっている気がするのも大きいかもしれません。

とりあえず今年できなかったことを来年に反映させて、上手く時間を作っていきたいなと思っています。

本年もお世話になりました。
来年が皆様にとって幸多き年になるよう心より祈っています。

では今年はこれにて。

ランチと美術

もう少し気軽な内容を書いて更新頻度を上げようと思っていたのに、既にもう月の半ばを過ぎているのが困ったものですが。先日のおでかけのお話。

まず昼食は東山二条のイオン横にある洋食イノツチ。カウンター席のみの小さなお店でしたが、料理好きの友人宅でご飯をお呼ばれしているような雰囲気で良かったです。

その後、京都国立近代美術館にてメアリー・カサット展。先月のデトロイト美術館展に比べると来客数が少なく、落ち着いて見て回る事ができました。また、特別展としての内容でも、一人の画家に焦点を当てた作品群を一望にできるので理解や気付きが得られやすく、110点という数も満足のいくものでした。ちなみにデトロイト美術館展は52点でした。

その後は軽くお茶を飲んで帰宅。こうした余暇のような時間を過ごせると、それだけで気分が違ってくるのが良いですね。

以上、今日は簡単にこれにて。