日野原先生のこと。

故人にどのような敬称をつけて呼べば良いのか毎回のように悩むのですが、直接教えを受けたわけではないとはいえ「先生」がやはり相応しいと思うので、以下では日野原先生とお呼びさせて頂きます。


さて、既に一昨日になりますが日野原先生が105歳で亡くなられたとの事。お歳を思えば不思議ではないとはいえ、もう少しだけでもという気持ちが込み上げてくるのを避けることはできませんでした。

それと同時に湧き上がってくる思いや感情、そして過去の記憶があり、それらを以下で書き記しておこうと思います。私の印象に残っている先生のエピソードを2つ、そして私の親の話と私の話になります。

日野原先生のお人柄や長い人生については、語るに相応しい方々が大勢おられると思いますので、ここで語るのは間接的に先生から影響を受けた者による手前勝手な内容であることをご了承下さい。


■日野原先生のエピソードその1

昭和26年(1951年)9月、サンフランシスコにて平和条約が締結されたまさにその月その場所で、ひとりの日本人医師が結核の再検査を求められていました。もしも検査に引っかかってしまうと、彼は到着早々に留学を諦めて故国へと送還される事になります。

指摘された結核らしき病巣を「治療済み」と強弁して乗り切ったその医師は、1年間の留学を無事に終えて帰国しました。その後20年にわたって聖路加国際病院で勤務して、昭和49年(1974年)に定年退職。しかし彼の人生はまだ、折り返し点を過ぎたばかりでした。


この後に述べる2つめのエピソードといい、つくづく歴史上の重大事件に縁のある方だなと思ったものですが、再検査を言い渡されてから事を収めるまでの期間に先生がどのような心境だったのか、考えさせられました。

おそらく世間的にはあまり知られていない話だと思いますが、私にとっては人生の節目というテーマで何度も物思いに耽る原因となったエピソードです。


■日野原先生のエピソードその2

昭和45年(1970年)に起きたよど号ハイジャック事件に巻き込まれた事、その際に「カラマーゾフの兄弟」を再読された事は、割に知られた話だと思います。

無事に解放されたと知っている我々と当事者だった先生とでは、その行為をどう受け止めるのか、そこにどんな意味を与えるのか、自ずと違ってくると思うのですが、私は以下のように受け取りました。

つまり、自分にとっての特別な作品とはどういう事か。それを再読する事でどのような意味が生まれるのか。そして他者はそれをどう理解すべきなのか。

最後の点について言えば、ハイジャック時に先生がゾシマ長老の話をどう読んだのか。それを考える事が、この事件に先生が巻き込まれた意味(あくまでも私にとっての、ですが)ではないかと思って、断続的に考え続けています。


■親がお世話になった話

先生にとっては大勢のうちの1人だったとは思いますが、ほんの短時間の会話が、その後の長きに亘って私の親にとっての心の支えになっていました。

その言葉はごくありふれたもので、だから発言の内容は重要ではありませんでした。その言葉を日野原先生が言って下さったという事、更にはその言葉を口に出す前に、先生が私の親の話を(親曰く)興味深く楽しそうに聴いて下さったという事。それらがあってこその言葉なのだろうと思います。

先生が亡くなられても私の親が生き続ける限り、そしてその話を伝えられた私が生きている限り、その言葉は意味を失わず生き続ける事になると思います。


■私の話

一応は講演を拝聴した事もあり、ほんの少しだけお話をさせて頂いた事もありますが、そうした事はお弟子さんなりが語ってくれると思うので、ここでは全く別の少し変わった話をしようと思います。

確か90年代も後半に入った頃、データ入力の作業を引き受けた事がありました。何かの会員名簿だったと思うのですが、その中には日野原先生のお名前もありました。

入力すべきデータは住所や連絡先を始め色々な個人情報が含まれていて、しかし当時はデータの扱いに対して何の注意もなければ、外部に持ち出して入力する事も咎められないような、そんな時代でした。

もしかすると、名簿に名を連ねていた方々は著名人ばかりだったので、敢えて秘匿せずとも知りたい人には知られている(だから情報流出を心配する必要はない)という事だったのかもしれませんが、今となっては真相は分かりません。ネットがそれほど発達してない時代の事です。

さて、データには各々の出身大学も含まれていました。当時ですら既に戦後50年を迎えていただけに、ほとんどは「昭和××年○○大学卒」だったのですが、そんな中で「昭和12年京都帝国大学卒」という文字列は、異彩を放って見えました。朧気な記憶によると、帝大卒は日野原先生以外にはお一方だけだったと思います。


日野原先生は明治44年のお生まれですが、私は子供の頃に明治終盤の生まれの方々によく可愛がって頂いたものでした。そして大学に入る頃には、昭和初めの生まれの方々に特にお世話になったように思います。

後者の方々、すなわち昭和20年代に大学を卒業した世代の方々にとって、「帝大卒ではない」という事には特別な意味がありました。もちろん人によって思い入れは異なるとはいえ、そこに何らかの使命感を見出した方々が多かったのではないかと思いますし、少なくとも私がよく話を聞いたのはそうした方々でした。


私は日野原先生のお名前を聞くと、この時に受け取った数枚の紙を思い出します。入力すべき内容がまとめられた手書きの用紙、その中にあった出身大学のデータ、帝大卒という文字列、そしてそこに特別な意味を見出した方々の事を思い出してしまいます。

戦後の復興が急速に進んで、既に昭和40年代には忘れられつつあった感覚なのでことさら表に出す事はしないという話でしたが、上記の通り昭和20年代に大学を卒業した方々は「帝大卒ではない」事を背負い続けて、そして日野原先生たちは「帝大卒の最後の世代」という自覚を持ち続けて、過ごしておられたように思います。

今は世の中が変わって、世界との距離も大学の存在意義も様変わりしてしまったので、こうした使命感は時代にそぐわないように思います。集団としての使命感よりも、個人の中にある興味をどう引き延ばしていくかを重視した教育が、現代には相応しいのだろうと思います。

しかし、敗戦によって分断された2つの世代があって、個人ではどうしようもない環境の変化を自分たちの世代が引き受けるべき事柄だと受け止めて、それを抱えながら人生を送った方々がおられた事だけは、できれば若い世代にも知っていて欲しいなと思います。

こうした変な使命感なぞ受け継がなくても良いとは、先達にも言われた上に私自身も全く同感なのですが、時代を反映する特定の世代がどのような思いでその後の人生を過ごしたのかを知る事は、人生を振り返る年齢に至った時に確かな一助になるはずです。少なくとも私にとってはそうでした。


日野原先生と直接的には関係のない話ですが、私にとって日野原先生の死は「帝大卒の最後の世代がこの世を去った」という意味合いも大きいので、以上のような話を書いてみました。


■終わりに

ここまで書いて来て改めて思うのは、私にとって日野原先生とは、主に2つの事を考えさせられた大切な先達でした。すなわち、いかに生きるべきか。そしてどのように下の世代に引き継ぐべきか。

これからも生きている限りこの2つを考え続ける事で、故人の恩に報いることができればと思っています。

R.I.P.

ブログを始めて10年。

最近は記事を書く頻度がめっきり減ってしまいましたが、今月でブログを書き始めて10年になりました。

だいたい2010年代に入ってからだったと思いますが、書きたいテーマをどこまで書くか、あるいはどこをどう切り取るのかという部分を悩むようになり、それが今も「書きたいのに書けない」理由の最たるものになっている気がします。

書きたいと思う事柄には、まず書く以前に知りたいという気持ちが働いて、その時点で(文字通り)深みに嵌まってしまうと、書く為の整理が追いつかなくなります。

2000年代までの私はおおよそ2年周期で、知る内容を拡充すること重視→それを書いてまとめること重視という繰り返しによって、書き物の質を高めようとしてきました。

しかし2009年を最後に、2010年からはその周期が崩壊して、知ることに偏重したまま今に至っている気がします。(蛇足ですが、こうした実感ゆえに、私は2008年や2010年以降に書いたものよりも、2007年や2009年に書いたもののほうが読みやすいのではないかと考えています。)

その原因は「この先」を考えてしまったからで、「死ぬまでにどれほど知ることができるのだろうか」という思いに取り憑かれてアウトプットよりもインプットに駆られる気持ちが強くなった結果ではないかと自分では考えています。

実はこうした気持ちは最近少し落ち着いて来て、「いつ死ぬかも判らないし、なるようにしかならない」と考え始めていますが、他方では時間ややる気の確保が少しずつ難しくなって来ました。数年後にはこちらの問題が更新の一番の妨げになるであろう予感がしています。

そんな感じで我ながら今後も更新頻度は疑問ですが、元気でいる限りは細々とでも続ける意欲はありますので、今後とも宜しくお願い致します。


では今月はこれにて。

5月も終わり。

年々まとまった時間が取れなくなって来ているわけですが、月一の更新すら出来ないのでは単なる言い訳ですね。
何だかんだでブログを始めて10年なので、来月はちゃんと何か書きたいところですが。。

以上、今月はこれにて。

クラシコ雑感

なかなか時間が取れず今更ですが、クラシコについて簡単に書き残しておきます。

個人的には、クラシコはバルサ優位のほうが楽しめるイメージがあります。それはどんな逆境でもレアルはレアルであり、一方でバルサは逆境で為す術なく敗れる印象があるからですが、ペップ時代より前のバルサを知らない人々からするとイメージは逆になるのかもしれません。

また最近のクラシコは戦術的に硬直している部分があり、どちらが勝つにせよ内容に不満が残る試合が多いように思います。

以上のような理由から、今回のクラシコもさほど期待せず観ていたのですが、それが半分当たって半分外れたという試合でした。


■バルセロナの攻撃

まずメンバーから。GKシュテーゲン、DF右からセルジ・ロベルト、ピケ、ウムティティ、ジョルディ・アルバ。中盤底にブスケツ、左にイニエスタ、右にラキティッチ。前線右からメッシ、スアレス、パコ。守備時にはパコが中盤左に入って4-4-2になっていました。

中盤の構成力でレアルに劣るようになってからどれほど経つのか。全盛期のシャビ・イニエスタ・ブスケツが君臨していた頃と比べると雲泥の差で、軽くプレスを受けただけで前にボールを運べなくなる状況は見ていて切ない限りです。

それはピッチ上の面々も理解しているのか、或いはキーパーまではあまりプレスに来ないレアルの守備上の約束を逆手に取ったのか、キーパーに戻してメッシにロングボールを蹴る場面が時々ありました。こうした動きはリーグ戦でボールを運べないときにも見掛けるので一つの選択として認知されているのだと思うのですが、それで何故かメッシが競り勝ったりするのだから不思議なものです。

レアルの守備にも助けられて、この試合ではメッシに一対一を挑ませたり、メッシからのパスを引き出すような動きが多く見られました。悪い時のバルサは他に手がないので守備の形が整った敵めがけてメッシが特攻→失敗→カウンターという後手に回る展開が多いのですが、この試合ではボールを前に運べさえすれば、主導権を握った状態でメッシを活かす攻撃ができていたと思います。


■レアルの守備

こちらもメンバーから。GKナバス、DF右からカルバハル、ナチョ、ラモス、マルセロ。中盤底にカゼミロ、その前にモドリッチとクロース。前線はベイル、ベンゼマ、ロナウド。守備時にはロナウドを上げて4-4-2になるのは同じですが、開始直後はベイルが左サイドに居たりと変な形でした。そのベイルは前半のうちに負傷交替しています。

前述のバルサの問題があったので、おそらく前線から熱心にプレスをかけてショートカウンターを連続させれば高い確率で複数得点を得られたように思います。しかし週の半ばにCLで120分を戦い抜いたこともあり、そこまでしなくても勝てるという自信もあったからか、前線から守備を発動するのは気紛れという程度の頻度に止まりました。

ブスケツへのマークもさほど厳しくなく、前を向いたメッシを4-4で緩く迎え撃つ守備は、さすがに相手を舐めすぎているように思いました。前線からの守備をしない場合でもブスケツはベンゼマにしっかり見て欲しいところですし、カゼミロが先読みで相手の攻撃を潰していたとはいえ、中盤での連動した守備の強度は低調なものでした。上手く相手選手を囲む良い守備がたまにあるという程度でした。


■軽い守備が失点を招く

レアルの2点目とバルサの3点目は、いずれも軽いプレイが裏目に出た形になりました。自陣奥深くであれほどマルセロをフリーにしたラキティッチも問題なら、セルジ・ロベルトの長駆を許したマルセロも問題だったと思います。

とはいえ両選手の局所のプレイに問題があったと言うよりは、それらが象徴する全体的な軽い守備に問題があったのだと思います。両選手はただ単にババを引いただけという感じですね。

そして両チームの守備に問題があれば試合はダレるものですが、そうならなかったのは両チームの攻撃への意識が際立っていたからなのでしょう。10人になったレアルが前に出た姿勢も見事なら、ラストのプレイでメッシが最後に姿を現して千両役者ぶりをアピールしたのも見事でした。

欲を言えばイスコが(それもスタートから)見たかったところですが、それはアトレティコとの試合でのお楽しみという感じですね。


■結論

最初に書いたように、戦術的には意外な部分は全くありませんでした。モウリーニョがぺぺを中盤で使ったり、ペップがアウベスをウイングで使うような奇抜な策もありませんでしたし、メッシに常にダブルチームで臨んだり、ロナウドがサイドを変えるごとにプジョルの位置を変更するような緻密な守備も見られませんでした。

一方で、観る人にとって面白い試合になっていたのも確かです。レアルのファンからすれば当然に不満の残る結果ですが、最後以外は内容も良かっただけに、あまり尾を引かないような負け方だったのではないかと思います。ペップ時代のバルサは次に対戦するが嫌になるような勝ち方でしたからね。

今シーズンも終わりが近付いて来ましたが、リーグ戦での上位対決は終わったもののCLでマドリー・ダービーがあるので、それを楽しみに待っています。個人的な希望としてはリーグがマドリー、CLがシメオネ・アトレティコ、国王杯がバルサでタイトルを分け合って欲しいなと思っております。

以上、今日はこれにて。

年度末はつらい。

できれば今月中にと思っていましたが、来月上旬に某ベストセラーについての雑感を書く予定です。
以上、今月はこれにて。

2月も終わる。

やはり書く習慣が一度途絶えてしまうと、なかなか定期的に書くのが難しくなりますね。
文字数は少しずつでも毎日定期的に書くようにしないと、状況は改善しないと分かってはいるのですが、難しいものです。
来月は何か書けると良いなぁ。。

では今月はこれにて。

1月が過ぎる。

遂に2017年ですが、このブログは相変わらずの更新頻度になりそうです。

一応はネタ的な軽いものを書く予定だったのですが、どうにも真面目な文章ばかり書いているからか、書いていても軽妙な感じが出ないんですよね。たまには馬鹿っぽい記事を書きたいところですが、困ったものです。

とりあえず今日のところは生存報告に代えて、という感じで。
ではまた来月。

大晦日。

いよいよ大晦日ですね。

今年は時間のやり繰りが難しくなった年で、色んなことが少しずつ後回しになった結果、幾つかのことを諦めるという展開が多かったように思います。

本なども読む量が減ってお恥ずかしい話ですが、自分が知りたい・楽しみたい作品は例年通りとしても、他者と情報を共有したい・話し合いたいと思うような作品を読む機会が減ったように思います。

それは世の流行りが本格的に解らないという悲しい事情も大きいと思いますが、書籍にしろ音楽にしろそれらの存在感が年々失われていって、軽い話題以上のやり取りを共有できるような作品が少なくなっている気がするのも大きいかもしれません。

とりあえず今年できなかったことを来年に反映させて、上手く時間を作っていきたいなと思っています。

本年もお世話になりました。
来年が皆様にとって幸多き年になるよう心より祈っています。

では今年はこれにて。

流れる星は生きている

去る今月15日に藤原ていさんが亡くなられたとの事で、彼女の代名詞とも言える作品「流れる星は生きている」について、以下で雑談のようなものを書き残しておこうと思います。


読んだのは随分前の事なので描写はうろ覚えですが、今も私の記憶に残っているのは、朝鮮人の青年と再会した時に「どうしてあなたはまだ生きているのですか」と尋ねられた場面です。

最初に読んだ時には「日本人だからだ」「日本人は強い」という子供っぽい感想を持ちました。藤原ていさんと同じ日本人であるという理由で、自分まで強くなったかのような事を思っていた記憶がありますが、子供ならそんな感じですよね。

同時に、その誇らしげな気持ちの中に朝鮮や韓国の人を見下す気持ちがあったかというと答えはノーで、今のように経済が停滞している状況とは全く違う上り調子の時代だったからこそ、「日本人は偉い」とは大人でも言っていましたが、それで別の国の人々を必要以上に見下すようなことは無かったと思います。

逆に当時の教養のある大人たちは、「朝鮮の人も凄い」という認識も持っていたように思います。今にして思えば、彼らは朝鮮のかなり上層の人達を指して言っていただけで、中流以下の人達の事は歯牙にも掛けていなかったと思うのですが。どこの国でも民族でも優秀な人はやっぱり優秀なのだと彼らは考えていたように思いますし、そうした人々を育んだ秘訣を学ぶ事に貪欲だったと思います。


何故か話が変な方向に進んでいますが、ついでなので最近は巷で話し難くなったこの話題を少しだけ続けます。経済成長によって韓国が豊かになった事と、ネットの発達で情報の行き来が飛躍的に増大した事、そして日韓W杯を経て交流が一段と進んだ事で、我々は彼の国の一般大衆の言説に惑わされる機会が激増して、すっかり関係が拗れてしまっていると思います。

私も最近は半島に関する話題を外で持ち出そうとは思いませんし、むしろ可能な限り避けているのが正直なところです。言い方は良くないですが、現状はあちらの中流以下の方々の暴論が行き過ぎた結果だと思いますし、しかしそれは先進国が等しく経験してきた事でもあります。

我が国においても、田中角栄と福田赳夫が総理を争った頃に岸信介が田中を「幹事長としてはピカイチだが総理になるには教養が足りない」と評したそうですが、その田中が総理の座を射止めた辺りが「大衆の反逆」の時期と考えて良いように思います。もちろん角栄の功績はそれとは別にあり、そしてオルテガが想定しているように、大衆か否かエリートか否かは、生まれではなく個人の内面によって判断されるべき事ですが。

こうした傾向は近年、世界の各地で以前よりも更に悪化している印象があります。それに対処し備えるには、やはり個人として培った強さというものが求められるように思いますね。


話を作品に戻します。その後は再読の機会がなかったのですが、上記の場面は時間を置いて時折私の頭の中に蘇ってきて、色々と考えさせられたものでした。

作品では確か、青年の顔つきが以前とは違うと作者が受け取っていたように思います。過酷な戦争の体験が一人の青年の精神を蝕んだ結果だと思いますが、彼の様相を変えてしまった背後にあったものについて考えさせられました。それは、作者が故郷の長野に戻るまでの道中が克明に記されているからこそ余計に、暗い印象を抱かせるものでした。

時間は万人に平等なようでいて実は不平等なもので、ある人が決定的に「時を重ねてしまった」状態に至るのに、長い場合は数十年かかりますが、それが一瞬で終わってしまう場合もあります。そんな人達の事を考え、そしてそうした方々と対峙した場合のことを考えた事は、自分の中での財産になっていると思います。


子供の頃に受けた印象についても、その後に何度か再考しました。日本人が偉いか偉くないかという議論とは別に、ただ単純に藤原ていさんが偉かったという事を受け止めたり。その上で、自分が何をこの作品から得るべきなのかを考えたり。

結局のところ話は単純で、それは個人の価値というものに行き着くのだと思います。作者は正彦ちゃん(作中では2歳なので何となくこう呼んでしまいます)が結婚された時だったか、義理の娘に「もし徴兵が復活したら、正彦の腕を斬ればいい」と告げたといいます。そう迷いなく言い切れる強さと狂気は彼女の中でずっと生き続けて、そして我々に何かを教えてくれているように思います。


ある意味では残念なことに、現在は冷戦期とは違って、日本に生まれたというだけで恵まれているとは言い切れない時代になっています。GDPの規模こそ大きいものの時間当たりの労働価値は以前からすれば考えられないほど低くなり、もはや日本人は偉いなどと言い出し難い状況になっています。

上述したように、藤原ていさんが凄い人だった事と、彼女が日本人だった事とは、我々が凄い事の何らの証左にもなりません。

しかし、彼女が書き残したこの作品を日本語で読める事は我々にとって何よりの恵みであり、個人の精神を涵養する際に我々を大いに手助けしてくれる作品だと私は思います。

この作品がこれからも若い世代に読み継がれて行く事を願いつつ、故人の逝去を悼み謹んでお悔やみを申し上げます。


以上、今日はこれにて。

テーマ : 読書 - ジャンル : 小説・文学

ランチと美術

もう少し気軽な内容を書いて更新頻度を上げようと思っていたのに、既にもう月の半ばを過ぎているのが困ったものですが。先日のおでかけのお話。

まず昼食は東山二条のイオン横にある洋食イノツチ。カウンター席のみの小さなお店でしたが、料理好きの友人宅でご飯をお呼ばれしているような雰囲気で良かったです。

その後、京都国立近代美術館にてメアリー・カサット展。先月のデトロイト美術館展に比べると来客数が少なく、落ち着いて見て回る事ができました。また、特別展としての内容でも、一人の画家に焦点を当てた作品群を一望にできるので理解や気付きが得られやすく、110点という数も満足のいくものでした。ちなみにデトロイト美術館展は52点でした。

その後は軽くお茶を飲んで帰宅。こうした余暇のような時間を過ごせると、それだけで気分が違ってくるのが良いですね。

以上、今日は簡単にこれにて。