クラシコCL雑感。

昨今は、試合のダイジェスト程度ならいくらでも動画サイトで確認できる時代ですので、以下ではざざっと気になった部分だけを書き残しておきます。


■12月のクラシコ

一つ目の話題は、失点時のコヴァチッチの動きについて。

メッシを警戒するあまり、ラキティッチのドリブル独走をお膳立てするかのような動きになったのですが、現地ではそれほど酷い言われようではなかったみたいで何よりでした。そう思う理由は二つ。

この時のモドリッチとカゼミロの位置および動きを確認すると、彼らにも責任の一端があるように見えるのが小さい方の理由。

そして大きい方の理由は、2015年のCL決勝を思い出して欲しいのですが、当時ユベントスに属していたピルロがメッシを警戒して距離を詰め、それによって生まれたペナルティ・エリア内のスペースにイニエスタが走り込んで先制点に繋がりました。

でも、このピルロの動きを批判した人って(指摘した人は少なからずいましたが)あんまり記憶にないんですよね。

少なくとも今回のコヴァティッチほど責められてはいなかったはずで、個人的には「そう動きたくなる気持ちは分かる」という意味で類似のプレイだと思うだけに、お咎めなしみたいで何よりでした。


二つ目の話題は、解説の宮本さんについて。

前半の終わり頃からハーフタイムの辺りで「バルセロナの中盤の守備の曖昧さ」について話題に出されていたと記憶しています。

で、私の印象としては「局所的には宮本さんの論が正しい」けれども、「チーム戦術として、あるいはピッチ全体として見ればどうかなぁ?」というものでした。順を追って説明していきます。

まず一つ目ですが、基本的にバルサやレアルそれにスペイン代表というチームは「センターバックやキーパーに踏ん張って貰ってなんぼ」という傾向が少なからずあります。

十年ほど前を思い返しても、プジョルやバルデスが身体を張ってギリギリ防いだ試合はいくつもありましたし、カシージャスがW杯決勝でロッベンとの一対一を凌いだ場面を思い出す方もおられるかと。今ならピケやラモス、それから両キーパーが活躍するシーンが、一試合に何度か見られます。

それから二つ目は、局所の最適解を積み重ねるのが全体にとって最善かというと、それは違うというお話。

そもそも、緩い部分を厳密にしていくと、どうしても肉体的・精神的な疲労が溜まっていきます。選手が機械ではない以上は限度があるわけで。なのにそこに拘る宮本さんの解説を聞いていて、指導者として大丈夫かなと少し不安になりました。

三つ目は二つ目と少し重なりますが、例えば両クラブとも、サイドバックの裏のスペースは守備では弱点になります。でも攻撃の主導権を握って相手を押し込めば、それは問題ではなくなります。

それと同様に中盤の守備が緩いことは、最終ラインが相手の攻撃に耐えた暁にはカウンターに繋がります。一方で、レアルの中盤の選手たちの技術の高さを見るに、厳密に守備を整えてもボールを奪えるとは限らず。ならば攻撃に繋がる姿勢を見せる方が期待値は高くなるかもしれません。

最後の話は所詮は仮定の話ですし、バルセロナの守備に緩さがあったのも確かですが、極端な話「斬り合う気が満々でこの形を選択した」のであれば、改善する必要はないんですよね。

強調しておきたいのは、「局所の最適解」を導けるのは褒められるべき事です。でもその最適解の「使いどころ」を間違えてしまえば、どうにもならないわけで。

宮本さんと言えば、将来的にはガンバや代表の監督をと期待されている存在だと思うので、「部分を気にしすぎて全体を崩してしまう」事のないように、着実に成長して欲しいなと思って書き残しておく次第です。


■5月のクラシコ

長くなったので手短に。
最近のバルセロナの問題点について。

今シーズンもリーガと国王杯の二冠を獲得しているとはいえ、ここ数年は終盤の大事な時期に乗り切れない印象が強いです。

新監督になって守備の安定感が向上したと言われますが、結局は一発勝負のトーナメント戦(CL)でも、無敗優勝が見えてきたリーガの試合でも、守備に綻びが出てしまったわけで。

では、やはり問題点は守備なのかと言えばそうは思えず、むしろ「点を取るべき時に取っていない」ことが響いた結果という印象です。

で、この流れで攻撃の中心たるメッシの話になるのですが、最近はクラシコですらスロースタートな感じで、止血用のガーゼを噛みながら本気のプレイになったレアル戦の辺りから、そうした傾向を感じていました。

早い話が、メッシを筆頭に選手たちのモチベーション管理に失敗しているのではないかと。

そして、昨シーズンのCLでパリを相手に逆転で勝ち上がった時には「バルサのレアル化(=最後には勝つ)」みたいな気配を感じたのですが、今のところは「やらかす傾向」のほうが勝っていて。

一方のレアルは、中盤のパスや連携などではバルサを上回って久しい状況です。そうした「バルサ化」に加えて勝負強さが並外れているだけに、大事な試合ほど負けるイメージが湧かないというのが正直なところです。


■CL決勝

実際、先週末のこの試合でもサラーが交替するまでの15分間は見応えがありましたが、以後は「いつもの」という感じでした。

ジダン監督の采配には時に素人でも首を傾げるような疑問手があって、その辺りが実績の割には微妙な評価に繋がっているのだと思います。

おおむね「戦術面では褒めそやすのに不安が残る一方で、モチベイタとしては超一流」みたいな評が一般的かと。

ただ個人的に凄いなと思うのは「勝負の流れを完璧に踏まえている」ように見えることで、「負ける時には負けておく事で勝負所で勝ちを逃さない」とでも言えば良いのか。あるいは失敗がより良い未来に繋がる感じで、敵にしたくないなと強く思います。

例えば昨シーズンのCLバイエルン戦では敵地で先勝しながらもホームで追いつかれて延長戦になり、結局はロナウドのハットで勝ち上がりました。その結果、メッシを抜いてロナウドが単独得点王になりました。

希望を見せておいて延長で三点取って勝つという、バイエルンにとっても一番嫌な形ですが、メッシにしても「なんじゃそれ」って言いたくなるような展開だったと思います。

少なくとも私がメッシの立場であれば心が折れる自信がありますし、「ロナウドに点を取らせるために、わざと延長にしたのかよ」と難癖を付けたくなるレベルですね。


おそらく、ジダン監督のレアル・マドリードは、負ける時にはあっさり負けると思います。でも大一番になるほど(決勝に近いほど)負ける姿が思い浮かばなくなります。

強いて言えば、やはりバルセロナ相手が一番結果が読めないものの、安定感や地力で差があるだけに、来期も優勝争いはマドリーが中心になるのでしょう。

そうした構図の中で、意外なクラブや新たな選手の活躍を楽しみにしたいと思っていますし、その前にワールドカップも楽しみですね。


そんなところで、今回はこれにて。

近頃のMac

二月末に書いたことの続編です。

OSを10.13 High Sierraにした結果、起動時から各種ソフトの使用時まで、細かな部分で色々と問題が発生しました。

特にテキスト周りの不具合が私にとっては致命的で、ある程度以上の文字数を(概ね一万字、時に三千字でも発生)入力した際に、文章が途中から消えてしまう(ように見えるだけで実際には消えていない模様。でもその状態でセーブを重ねると消える)ケースに何度も遭遇しました。

今までも、万が一に備えて古いバージョンのOSを起動できるようにはして来ましたが、それらが役に立つ場面はほとんどありませんでした。

Power PC時代のファイルを読めるように10.3 Pantherを、
OSの一つの到達とも思えた10.6 Snow Leopardを、
そして安定感のあった10.11 El Capitanを、
それぞれ今も起動できる状態で保っていますが、
メインで使うMacのOSをアップデートしてからは、ほぼ立ち上げることなく過ごして来ました。

今回も、それらが役に立ったかというと微妙です。

私にとっては初めての経験になるのですが、このたびOSのダウングレードを実行しました。

10.13 High Sierraで使用していたSSDに、10.12 Sierraをクリーンインストールして、
1月末に問題が生じた時にHDDの別パーティションに保存しておいたデータを引き継ぎました。

SSDをフォーマットする前に保存しておいた10.13 High Sierraのデータを引き継げたら理想的でしたが、それは叶わず。
とはいえ、二ヶ月弱の使用期間で大幅な変更を加えた箇所はなかったので、何とか手動で最新環境に移行して事なきを得ています。

今後のOS環境がどうなるのか、私には専門的なことはよく分かりませんが、セキュリティアップデートやOSのバージョンアップをして酷い目に遭うような事態は極力避けて欲しいものです。

古いものを切り捨てるのも、より斬新なシステムを目指すのも反対はしませんが。
とにかく使い易ささえ維持して貰えれば、定期的に買い替えて売り上げに貢献しますので、よろしくお願いしますと。

そんな感じの結論で、今月はこれにて。

理解力のお話。

最近ちょっと思った事。
端的に言えば、人によって理解力の違いが凄まじいんだなぁ、というお話。

例えば、誰かプロのスポーツ選手がドーピング検査を「受けた」というニュースがあったとして。
それを正確に理解できる人たちがいて。
それをドーピング検査に「引っかかった」と受け取る人たちがいて。
更にはドーピングは犯罪で、犯罪を犯した人には人権などないと考える人たちがいて。
一方でドーピング=危険薬物だと(例えば覚醒剤のような)考える人たちがいて。
そしてそれらの誤解を全て盛り込んだ理解をする人たちもいて。

こうした事は意外に珍しくないんだよなぁと。
そして、もしも自分や身近な人がそうした誤解を受けた時にはどう対処すれば良いんだろう、などと。
そんなことをふと考えてしまった年度末でした。

以上、今月はこれにて。

最近のMac

適度にWinを併用しつつも基本的にはMac使いなのですが、最近ちょっと微妙に思うことが立て続けにあったので、メモ的に書き残しておきます。


・アップデート問題

先月末だったか、1月のセキュリティアップデートと、使用しているウイルスソフトのバッティングによって、Macが立ち上がらなくなりました。

最初は使用しているHDDかSSDに異常が起きたと思ったのですが、古いOSを残してあった外付けHDDで立ち上げてみると、それらには問題が見当たらず。

とりあえず外付けHDDのパーティションを切って、現行のシステムをそのままコピーした上で、OS(Sierra)をクリーンインストールしました。

しかし各種ソフトをインストールして再起動させたら再び立ち上がらなくなって。

色々と検索をしたり検証を重ねた結果、El CapitanとSierraの環境下で上記の現象が発生するという結論に辿り着いたので、今度はHigh Sierraをクリーンインストールした上で、HDDにコピーしていたシステムからデータを移行して復活しました。

今回の事態の引き金が「セキュリティアップデートを実行したこと」だったのが微妙なところで、ウイルスソフトとかち合ったことといい、真面目に対策をしている人ほど馬鹿を見ているような気がしました。


・HFS形式(Mac OS 標準)でフォーマットされたCD-ROMを開けない

さて、そんな経緯によってOSがHigh Sierraになってしまったのですが、SierraからはHFS形式(Mac OS 標準)でフォーマットされたCD-ROMが開けなくなったとは知りませんでした。

たまたま見付けた古いソフト(WinとMac両用の辞書ソフト)を購入してインストールしようとしたところ、全く認識してくれず。慌てて検索して上記の変更を知りました。

その時に見付けた対応策として、ディスクユーティリティを使って無理矢理CD-ROMを読み込んで、[ファイル]→[新規イメージ]→[イメージ作成]によって.dmgファイルを作成するという手段を知りました。しかし私の環境では上手く機能せず。

仕方なく今回も、古いOSを残してあった外付けHDDを立ち上げてCD-ROMの中身をコピーして、改めて最新のOSで立ち上げてそれを実行することで何とか辞書をインストールできました。


・Delicious LibraryとAmazonデータベース

これはApple社の問題ではなくサードパーティの問題なのですが。

私は長い間、所有の書籍と音楽CDのリストを、Delicious Library(1および2)というソフトで管理してきました。

しかし昨年の秋頃から、ソフトがAmazonのデータベースを参照できなくなったみたいで。

その辺りは企業間の契約の問題なので個人ではどうにもできないことですが、使っていない机の上にデータ未入力の本がどんどん貯まっていく(本棚に収納できない)現状を何とかしたいので、早く改善するよう願っています。


・mac miniとiPod Touch

これは付け足しみたいなものですが、これらの新作が発売されれば私は迷わず購入しますので、新製品が発表される日を心待ちにしています。



以上、今月はこれにて。

最近の傾向。

最近の傾向として、

・流行りの事柄への興味がますます薄れてきた
大相撲とかビットコインとか、それら自体には興味が無いわけではないのですが、世間的に話題になっているような方向性から見ることには興味を惹かれないという感じです。

・自分の視点や論理展開が変だと自覚する機会が増えた
上記の流れを汲んでいますが、その結果、自分が考えている事をどんな風に伝えたものかと、説明の順序に悩む時があります。

・相手の基礎知識や理解力や思考能力が読めなくて困る時がある
上記に加えて、どの程度の説明なら省略しても良いのか、逆に補足すべき情報はどれぐらいあるのか迷う時があります。

こうした認識を抱く場合がしばしばあって、年を取って来たということかなぁと、少し嬉しく少し寂しい気持ちでいる今日この頃です。

三項目目について言うと、例えば高校生とか大学生向けの講義をまとめた本がありますが、そうした書籍の中で語り手の先生方が、聞き手(高校生や大学生)の反応を探りながら話しておられるなぁと思う場面があって。

一昔前だと、読みながら「もう少し踏み込んでも大丈夫」とか「そこはもう少し説明を加えた方が」とか思っていたものですが、そうした中間的な立ち位置から徐々に遠ざかって、年配の先生方の位置に近付いているのだなと、そんなことを思ったりします。


以上、近況報告のような記事でした。
今月はこれにて。

CL決勝雑感。

今更ですが、クラシコの話をする前に書いておきたいと思ったので、半年前のチャンピオンズリーグ決勝のお話をば。


■スタメン

キーパーはナバス。
DF右からカルバハル、ヴァラン、ラモス、マルセロ。
中盤底にカゼミロ、その前にモドリッチとクロース。
トップ下にイスコ、2トップにベンゼマとロナウド。
基本は4-3-1-2で、守備時にイスコがサイドハーフの守備に入りフラットな4-4-2になる時も。

キーパーはブッフォン。
DF右からバルザーリ、ボヌッチ、キエッリーニ、サンドロ。
中盤右からアウベス、ピヤニッチ、ケディラ、マンジュキッチ。
トップ下にディバラ、1トップにイグアイン。
守備時はこの4-4-1-1が基本で、攻撃時にはサンドロを中盤に上げマンジュキッチを前線に押し出した3-4-3と考えると分かりやすいかと。


■点を取る形

ユベントスは、ボヌッチから前線左サイドのマンジュキッチを狙ったロングボールを明確に狙っていた印象があります。そして得点シーンも、ロングボールを受けたのはマンジュキッチではなったもののゴール前でボールを繋いで、最終的には彼がシュートを決めたのだから、まずまず計画通りと言って良かったかと。

ただ問題は、このメンバーの中で潜在能力が抜けているディバラを活かせなかった点にあったのかなと思います。ハーフウェイラインまで戻って組み立てに加わる場面が何度かあり、そのセンスは流石だなと思わせるものがありましたが、ゴールから遠いこんな位置でプレイしてもなあ……というのが正直なところでした。

対するレアルはロナウドに点を取らせる形が明確で、守備面での怪しさを補って余りある形になっていました。とはいえこれは結果論と言えば結果論ではあります。以下、レアルについて。


■ジダン監督

この試合でも、中盤の守備という点では色々と怪しい場面がありました。またシーズンを通して振り返っても、変なところで負けてしまったり調子が上がらない時期もあり。監督にも、多くの人が首を傾げたくなるような奇妙な采配が何度かありました。

それでも、勘所は外していないという印象で。この試合でも失点の危険性は(中盤の守備の緩さの割には)あまり感じませんでしたし、シーズン二冠を達成しましたし、采配の失敗が尾を引くこともありませんでした。

グアルディオラ監督と比較すると解りやすいと思うのですが、彼が消化試合を除く全ての試合で完璧を目指そうとするのに対して、ジダン監督は何と言うか、失敗できる時には失敗しているという印象があります。それが結果的にはタイトル獲得に至る安定したルートをもたらしているという気がします。

これは考えてみると、とてもバルサらしい、とてもマドリーらしい在り方に思えます。会長の存在も含めた、ラポルタ政権下のグアルディオラ、そしてペレス政権下のジダンという対比には、色々と考えさせられるものがありますね。


■個人と組織

グアルディオラ監督の登場以来、個人と組織のどちらが大事かという問いは複雑さを増しました。つまり、並外れた個人を活かすためにトップレベルの選手達が組織を作れば最強ではないか、という主張が結果と共に提示されたからです。

しかし組織の複雑さは年を追うごとに高まり、その完成度の前には、世界最高レベルの個人であっても単独では突破が不可能に思える域にまで至りました。

つまり、ビッグクラブであろうとも欧州での戦いを勝ち抜くためには、緻密な組織の構築と、同時に超一流の個人を確保するのが必須となりました。

この試合を観ていて、やはりメッシとロナウドを擁しているバルサとマドリーの優位性を思わずにはいられませんでした。更に、この両クラブは二人の後釜とも言えるネイマールとベイルをも擁していました。あれから半年が過ぎた今、片方はチームから去り、片方は怪我が絶えないからと放出候補にさえ名が挙がりかけていますが、この時にはそんな風に思ったのでした。


■CLの行方

事実、この四年間は両クラブが優勝を分け合っています。そう言うとマドリーのファンからは不満を言われそうですが、四年間に三度の優勝を誇るマドリーも、そしてバルサも、お互い永遠のライバルを直接下しての優勝はありません。それどころか、以下のような事実があります。

2017年:バルサを破ったユベントスを決勝で下してマドリー優勝。
2016年:バルサを破ったアトレティコを決勝で下してマドリー優勝。
2015年:マドリーを破ったユベントスを決勝で下してバルサ優勝。
2014年:バルサを破ったアトレティコを決勝で下してマドリー優勝。
2013年:マドリーを破ったドルトムントを、バルサを破ったバイエルンが決勝で下して優勝。
2012年:マドリーを破ったバイエルンを、バルサを破ったチェルシーが決勝で下して優勝。

なお2011年は、準決勝でクラシコを制したバルサが優勝しています。今シーズンもこの流れが踏襲されるのか、それともスペイン以外のリーグから5年ぶりに優勝クラブが出るのか。

もちろん相手のある勝負である以上は、他のクラブの動向にも左右されます。特に今シーズンは各国で、クリスマスの時点でリーグ首位を独走しているクラブが多く出ています。マンチェスター・シティ。バイエルン・ミュンヘン。そしてパリ・サンジェルマンといった顔ぶれを相手にすると、スペインの二強であっても勝負は予断を許しません。

それでも、そうしたクラブの側からすればやはり、この二つのクラブの動向が気になるのは間違いないと思います。単にリーガ・エスパニョーラの優勝の行方を左右するに止まらず、CLの行方にも影響しかねない両チームの対決が、先日行われました。いわゆる、クラシコです。


■つづく

明日か明後日に書けると良いなぁ……(書けなかったらごめんなさい)。

いじめの構図

今月は長文を書きたいと思っていたのですが、なかなか時間が作れないですね。。
という事で、時事ネタのお話を少し。

最近、相撲のニュースが世間を賑わせていますが、具体的な話はさておいて。

グループから距離を置く個人や集団の中で孤立する個人に対しての扱いは、日本もモンゴルも変わらないんだなと思いました。

おそらくは洋の東西を問わず、群れた一団の行動様式には一定の共通項があるのでしょうね。

そうした行動に加えて、自分たちは悪くないと思っている辺りも、我が国におけるいじめの構図と何ら変わらないなと思ったり。

被害者にも非があったとか、加害者は思いやりのある性格で等々のニュースが出て来る辺りも共通していますし、この手の問題は何度繰り返しても改善の傾向が見られないのが困ったところですね。

理不尽なことが多い世の中ですが、自分の身近な人たちがこうした事態に巻き込まれない事を、つまり運を願うだけではなく。

すぐ近くで同種の事件が発生したら、少しでも被害者にとって事態が良い方向に向かうように、何か自分にできることを考えるという姿勢だけは放棄しないようにしようと、そんな些細な誓いを立てる今日この頃です。

以上、今月はこれにて。

Twitterと流行と

気付けば一ヶ月以上放置していたので、軽い話を一つ。

最近はTwitterを読む時間もなかなか取れないのですが、Twitterを使った情報収集に問題に感じて足が遠のいている部分もあります。ちなみに呟くほうは、かなり縁遠くなって久しいです。

で、その問題点なのですが。出版関連のアカウントを例に説明しようと思います。


出版不況の昨今、出版社や作家さんが作品のことを何度も呟いて宣伝するのは、気持ち的には応援したいところです。

しかし同じ作品のことばかりを何度も呟かれたり、その作品についての誰かの呟きを余さずリツイートされると、こちらの感覚が狂ってくる気がするんですね。

その作品がもの凄く大ヒットしているように思えて来て、その結果、世間の認識と自分の認識に狂いが出るというか。数ヶ月程度なら問題ないのですが、年単位になるとズレが酷くなって困る気がすると言いますか。

Twitterは自分でフォローするアカウントを選べますが、よくよく考えるとテレビのチャンネルを選ぶのと同程度の受け身のメディアなわけで。

それよりも、各出版社のホムペで月ごとの新刊をチェックしたり、実際に書店に足を運んで本が並んでいる様子をざっと見て回ることで流行を確認する方が、世間一般の認識に近い受け止め方ができるのではないかなと。

そんな感じで、古典的な行動に回帰しそうになっている今日この頃なのでした。


以上、今日はこれにて。

ミス。

昨日の夜には覚えていたのに、サッカー見たり色々としながら「何かを忘れているような」と引っかかるものがありつつも、更新する必要がある事を思い出せず。

とりあえずサッカー日本代表、ワールドカップ六大会連続出場おめでとうございます!

以上、今日はこれにて。

日野原先生のこと。

故人にどのような敬称をつけて呼べば良いのか毎回のように悩むのですが、直接教えを受けたわけではないとはいえ「先生」がやはり相応しいと思うので、以下では日野原先生とお呼びさせて頂きます。


さて、既に一昨日になりますが日野原先生が105歳で亡くなられたとの事。お歳を思えば不思議ではないとはいえ、もう少しだけでもという気持ちが込み上げてくるのを避けることはできませんでした。

それと同時に湧き上がってくる思いや感情、そして過去の記憶があり、それらを以下で書き記しておこうと思います。私の印象に残っている先生のエピソードを2つ、そして私の親の話と私の話になります。

日野原先生のお人柄や長い人生については、語るに相応しい方々が大勢おられると思いますので、ここで語るのは間接的に先生から影響を受けた者による手前勝手な内容であることをご了承下さい。


■日野原先生のエピソードその1

昭和26年(1951年)9月、サンフランシスコにて平和条約が締結されたまさにその月その場所で、ひとりの日本人医師が結核の再検査を求められていました。もしも検査に引っかかってしまうと、彼は到着早々に留学を諦めて故国へと送還される事になります。

指摘された結核らしき病巣を「治療済み」と強弁して乗り切ったその医師は、1年間の留学を無事に終えて帰国しました。その後20年にわたって聖路加国際病院で勤務して、昭和49年(1974年)に定年退職。しかし彼の人生はまだ、折り返し点を過ぎたばかりでした。


この後に述べる2つめのエピソードといい、つくづく歴史上の重大事件に縁のある方だなと思ったものですが、再検査を言い渡されてから事を収めるまでの期間に先生がどのような心境だったのか、考えさせられました。

おそらく世間的にはあまり知られていない話だと思いますが、私にとっては人生の節目というテーマで何度も物思いに耽る原因となったエピソードです。


■日野原先生のエピソードその2

昭和45年(1970年)に起きたよど号ハイジャック事件に巻き込まれた事、その際に「カラマーゾフの兄弟」を再読された事は、割に知られた話だと思います。

無事に解放されたと知っている我々と当事者だった先生とでは、その行為をどう受け止めるのか、そこにどんな意味を与えるのか、自ずと違ってくると思うのですが、私は以下のように受け取りました。

つまり、自分にとっての特別な作品とはどういう事か。それを再読する事でどのような意味が生まれるのか。そして他者はそれをどう理解すべきなのか。

最後の点について言えば、ハイジャック時に先生がゾシマ長老の話をどう読んだのか。それを考える事が、この事件に先生が巻き込まれた意味(あくまでも私にとっての、ですが)ではないかと思って、断続的に考え続けています。


■親がお世話になった話

先生にとっては大勢のうちの1人だったとは思いますが、ほんの短時間の会話が、その後の長きに亘って私の親にとっての心の支えになっていました。

その言葉はごくありふれたもので、だから発言の内容は重要ではありませんでした。その言葉を日野原先生が言って下さったという事、更にはその言葉を口に出す前に、先生が私の親の話を(親曰く)興味深く楽しそうに聴いて下さったという事。それらがあってこその言葉なのだろうと思います。

先生が亡くなられても私の親が生き続ける限り、そしてその話を伝えられた私が生きている限り、その言葉は意味を失わず生き続ける事になると思います。


■私の話

一応は講演を拝聴した事もあり、ほんの少しだけお話をさせて頂いた事もありますが、そうした事はお弟子さんなりが語ってくれると思うので、ここでは全く別の少し変わった話をしようと思います。

確か90年代も後半に入った頃、データ入力の作業を引き受けた事がありました。何かの会員名簿だったと思うのですが、その中には日野原先生のお名前もありました。

入力すべきデータは住所や連絡先を始め色々な個人情報が含まれていて、しかし当時はデータの扱いに対して何の注意もなければ、外部に持ち出して入力する事も咎められないような、そんな時代でした。

もしかすると、名簿に名を連ねていた方々は著名人ばかりだったので、敢えて秘匿せずとも知りたい人には知られている(だから情報流出を心配する必要はない)という事だったのかもしれませんが、今となっては真相は分かりません。ネットがそれほど発達してない時代の事です。

さて、データには各々の出身大学も含まれていました。当時ですら既に戦後50年を迎えていただけに、ほとんどは「昭和××年○○大学卒」だったのですが、そんな中で「昭和12年京都帝国大学卒」という文字列は、異彩を放って見えました。朧気な記憶によると、帝大卒は日野原先生以外にはお一方だけだったと思います。


日野原先生は明治44年のお生まれですが、私は子供の頃に明治終盤の生まれの方々によく可愛がって頂いたものでした。そして大学に入る頃には、昭和初めの生まれの方々に特にお世話になったように思います。

後者の方々、すなわち昭和20年代に大学を卒業した世代の方々にとって、「帝大卒ではない」という事には特別な意味がありました。もちろん人によって思い入れは異なるとはいえ、そこに何らかの使命感を見出した方々が多かったのではないかと思いますし、少なくとも私がよく話を聞いたのはそうした方々でした。


私は日野原先生のお名前を聞くと、この時に受け取った数枚の紙を思い出します。入力すべき内容がまとめられた手書きの用紙、その中にあった出身大学のデータ、帝大卒という文字列、そしてそこに特別な意味を見出した方々の事を思い出してしまいます。

戦後の復興が急速に進んで、既に昭和40年代には忘れられつつあった感覚なのでことさら表に出す事はしないという話でしたが、上記の通り昭和20年代に大学を卒業した方々は「帝大卒ではない」事を背負い続けて、そして日野原先生たちは「帝大卒の最後の世代」という自覚を持ち続けて、過ごしておられたように思います。

今は世の中が変わって、世界との距離も大学の存在意義も様変わりしてしまったので、こうした使命感は時代にそぐわないように思います。集団としての使命感よりも、個人の中にある興味をどう引き延ばしていくかを重視した教育が、現代には相応しいのだろうと思います。

しかし、敗戦によって分断された2つの世代があって、個人ではどうしようもない環境の変化を自分たちの世代が引き受けるべき事柄だと受け止めて、それを抱えながら人生を送った方々がおられた事だけは、できれば若い世代にも知っていて欲しいなと思います。

こうした変な使命感なぞ受け継がなくても良いとは、先達にも言われた上に私自身も全く同感なのですが、時代を反映する特定の世代がどのような思いでその後の人生を過ごしたのかを知る事は、人生を振り返る年齢に至った時に確かな一助になるはずです。少なくとも私にとってはそうでした。


日野原先生と直接的には関係のない話ですが、私にとって日野原先生の死は「帝大卒の最後の世代がこの世を去った」という意味合いも大きいので、以上のような話を書いてみました。


■終わりに

ここまで書いて来て改めて思うのは、私にとって日野原先生とは、主に2つの事を考えさせられた大切な先達でした。すなわち、いかに生きるべきか。そしてどのように下の世代に引き継ぐべきか。

これからも生きている限りこの2つを考え続ける事で、故人の恩に報いることができればと思っています。

R.I.P.